古文書から今井津周辺の実態が把握できるようになるのは、南北朝に入ってからのことである。元永村に関する史料がその初見で、宇都宮(うつのみや)氏の庶流佐田(さだ)氏が領主として登場する。
観応元年(正平五、一三五〇)一二月二〇日、室町幕府から派遣された鎮西管領(ちんぜいかんれい)の一色道猷(範氏)(いっしきどうゆう(のりうじ))は、田河郡伊方(いがた)荘とともに元永村の地頭職を佐田公景(さだきみかげ)に給与している「同日付「一色道猷宛行状」佐田文書、写真22)。元永村はそれ以前に、元永弥次郎という者の所有であったと見えるが、同氏については素性が明らかでなく、鎌倉時代までその支配が遡るものなのかも判然としない。ただ名字から見て、もとより在地にあった勢力と見るべきだろう。管領による公景への所領給付は、同年に始まった足利直冬(あしかがただふゆ)と探題方の争乱に連動したもので、さらに翌年にはかつて北条氏の所領であった吉田(よしだ)荘も給与されている(観応二年正月卅日付「一色道猷範氏宛行状」同前)。こうした関係は、支援勢力の乏しかった探題にとって佐田氏が重要な戦力として期待されていたことを示すものにほかならない。同族の西郷(さいごう)氏がこのころ大野井荘へと侵入していたことなども考えあわせると、城井谷を拠点としていた宇都宮一族は、このころ祓川を遡る形で京都平野へと勢力を拡張していたと見られる。ゆえに河口に当たる元永は、同一族にとって極めて重要な拠点と認識されたに違いない。
これ以降、佐田氏は北朝・幕府方として一貫して活動したため、南朝制圧下において極めて困難な状況に陥ったが、元永村の維持には特に意をもちいており、節目節目で領有の確認を行っている。文和年間の佐田公景の戦死に続き、永和元年(一三七五)には嫡子経景(つねかげ)も戦死するなど、所領支配はままならない状況にあったが、その跡を嗣いだ親景(ちちかげ)は時の九州探題今川了俊(きゅうしゅうたんだいいまがわりょうしゅん)「父・祖父討死跡候、忠節異于他」との理由で、元永の返還を約束されている(年未詳三月一七日「今川了俊書状」同前)。探題が了俊から渋川満頼(しぶかわみつより)に代わっても佐田氏は元永保有の努力を続け、応永七年(一四〇〇)には探題満頼から仲津郡稗田(ひえだ)荘・田河郡伊方荘とともに元永村の安堵を獲得している(同年九月一一日「渋川満頼書下」同前)。親景は永享七年(一四三五)に当村を含む家領を嫡子盛景(もりかげ)に譲与しているが、ほぼ一〇〇年に亘る元永村と佐田氏の関係はこの辺りで途絶えることになる。応永年間に佐田氏は宇佐郡佐田荘に本拠を遷したと伝えられており(「佐田氏系図」)、そうした拠点の移動が元永支配にも何らかの影響を与えたと見ておきたい(則松弘明『改訂増補版 鎮西宇都宮氏の歴史』)。