鋳物師集団の活動

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 一五世紀に入ると今井も史料上に確認できるようになる。それは金屋を拠点とする鋳物師(いもじ)集団が活動を始め、鋳造銘にその足跡を残すようになったからである。金屋という地名は、言うまでもなくこれらの人々にちなんだものであり、今井津は流通に携わるのみならず、金属生産地としての機能も併せ持つ場として発展していった。
 応永二一年(一四一四)に「今居」の「藤氏昌久」なる人物が、周防国恒富保吉田郷(つねとみのほよしだごう)(現山口市)の高蔵寺(こうぞうじ)から発注された梵鐘を鋳造している。その鐘銘によるとこの鐘は同郷内に建立した熊野社に奉納したもので、大和多武峰(とうのみね)の僧忍長(にんちょう)が願主となって勧進を進めたと見える(『日本古鐘銘集成』)。また恒富保地頭の平子(仁保)(たいらこ(にほ))氏もこれを後援しているが、同氏は相模の名族三浦(みうら)氏の庶流で、鎌倉期以来の有力武士であると同時に、大内氏の有力被官となっていた(横浜市立博物館編『特別展 鎌倉御家人平子氏の西遷・北遷』)。文明年間の史料ではあるが、平子氏は京都郡吉田荘内に所領を有しており(文明二年三月二三日「仁保弘有譲状」三浦文書)、日常的に今井津と関係をもっていた可能性が高い。恐らくそうしたネットワークのなかで今井津の鋳物師らは受注に成功したのではないかと思われる。周防の武士や大和の勧進聖など幅広い人脈を介して、当地の鋳造品は広く流布したのであろう。
 続く応永二八年(一四二一)には彦山(ひこさん)大講堂の鐘が「鋳物師大工豊前国今居住左衛門尉藤原安氏(やすうじ)」の手によって鋳造されている(現浄喜寺所蔵、口絵参照)。この鋳造にあたっては安氏も費用援助をしたようであるが、注目すべきは勧進僧とならんで助成者として銘記された「当国今居住沙弥道本(しゃみどうほん)」であろう。道本は永享九年(一四三七)に鋳造された久保荘総社八幡宮(勝山町上久保の大原八幡社か)の梵鐘(現大分県宇佐市上元重の法音寺(ほうおんじ)所蔵)にも銘文を刻書したと見えており、教養も兼ね備えた商人的な存在ではなかったかと推定される。相当の資本を蓄積し、諸々の勧進に積極的に応じる階層が今井に成長していたことは、同津の発展を考える上で注目に値するだろう。
 今井の鋳物師集団による製作活動はその後も続き、永享から宝徳にかけて藤原頼安(よりやす)という人物が多くの鋳造を行っていたことが知られている。現在知られている頼安の作品を列挙すると次の通りである。
 ①永享八年一二月一四日 元永妙見宮旧蔵鐘銘
 ②永享九年八月 久保荘総社梵鐘銘
 ③宝徳元年一一月 蔵持山(くらもてやま)神社上宮拝殿鰐口
 ④宝徳四年 旧蔵持山北山殿鰐口銘(『神道体系』44)

①は現在須佐神社と境内を同じくする元永村の鎮守妙見社の旧蔵品である。現存しないが『太宰管内志』に採録されており、近世後期には同宮にあったと分かる。②は前述の道本が関与した旧久保荘総社八幡宮の梵鐘で、経緯は不明ながら宇佐へ流出し今に至っている。③④はいずれも修験の道場として栄えた蔵持山の鰐口で、奉納した願主僧の依頼により作成されたものである。③は現存しており、犀川町教育委員会が管理している。このように頼安は今井津近郊の多くの寺社からの求めに応じて、梵鐘から鰐口まで大小を厭わず鋳造にあたっていたことが窺われる。
 このほか永享一二年(一四四〇)に鋳造された宗像郡津屋崎の奴山縫殿(ぬやまぬいどの)社所蔵の梵鐘もまた今井津製である。東金屋に居住していた藤原吉安(よしやす)の作と見えるが、彼はその姓名から考えて頼安と密接な関係にあったと見てよいだろう(『日本古鐘銘集成』)。また鋳物の技術は内湾に浮かぶ蓑島にも広がり、享徳三年(一四五四)に求菩提(くぼて)山護国寺へ奉納された舎利塔は「大公簑島五郎」の手になるものである(『太宰管内志』)。「大公」とは大工のことと推定され、彼が金大工すなわち鋳物師であったことを示している。なお彼ら今井津鋳物師の技術的な特徴については、「第六編 美術」に譲ることにする。