時宗寺院の登場

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 右のように、今井津にとって一五世紀は、商工業の発展を背景として港湾都市として著しい成長の時期に当たっていた。そして新たに生み出された都市民を対象として、新仏教とよばれる宗派が教線を延ばしてくる。今井津において確認されるのは、一遍(いっぺん)の系譜を引く時宗(じしゅう)であった。同宗は一遍が列島を遍歴して布教して以来、各地の都市に進出して信者を組織していたのである。大内氏が山口に建てた善福寺(ぜんぷくじ)という時宗寺院の末寺帳によると、元永に光福寺(こうふくじ)と願成寺(がんじょうじ)の二カ寺のあったことが分かる。善福寺は現在廃寺だが、かつては多数の古文書を伝えていたことが知られ、そのうちには永享一一年(一四三九)・嘉吉三年(一四四三)・文正元年(一四六六)の三つの末寺帳があった。元永の二カ寺はそのいずれにも記載があり、寺田として光福寺が四町五反を、願成寺が六町三反余を認められていた(『防長風土注進案』一三)。同帳をもって大内氏は末寺を掌握すると同時に、それぞれが持つ寺田の税を免除したのである。
 光福寺は元永に見あたらず、近隣の字中須(なかす)に同名の浄土宗寺院が見出される。同じ浄土系であり系譜上につながるかも知れないが、今のところそうした徴証は見出だせず、詳細は不明である。願成寺もまた現存しないが、末寺帳には「願主安東助阿(あんどうじょあ)」とあり、同寺が近隣天生田荘の公文安東氏によって建立されたことが分かる。助阿は一四世紀の中・後期に活躍した人物であるから、願成寺の創建もそのころに遡ると考えてよいだろう。今井津と内陸荘園は、流通や情報のみならず信仰においても結びついていたのである。安東助阿は既にふれたように、京の石清水八幡宮や大宰府とつながりを持つなど、幅広く活動していたが、そういった活動の背景には、今井津に拠点を持ち、物流や情報を巧みにとらえる姿勢があったのだろう。