海運の発展と海賊衆

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 一五世紀の今井津の成長は、これまでに述べてきた商工業の発達であると同時に海運業の発展でもあった。今井津にてそうした機能を果たしていたのが内湾に浮かぶ蓑島であった。長峡・今・祓の三河川と周防灘の航路を結ぶ地を占める同島には、おそらくかなり古くから海運を営む人々が住み着いていたと想像される。彼らの活動を明確に示す史料は多く残されていないが、注目すべきは朝鮮で編纂された『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』の中に、応仁二年(一四六八)に蓑島の「海賊大将玉野井藤原朝臣邦吉(たまのいふじわらあそんくによし)」なる人物が、対馬の宗貞国(そうさだくに)を介して朝鮮の李(り)王朝に使を派遣したと見えることである(口絵参照)。中世の海民は海運業を営みながら、他方では海賊として活動することが一般であった。警固や運送の費用を得て航路の安全を保障する一方、そうした負担を逃れようとすれば攻撃や拿捕を厭わなかったのである。「海賊」という語の持つ語感は今日の我々が抱く否定的なものではなく、ゆえに邦吉も自らそう称していたと思われる。彼ら蓑島海賊の航路は豊前・周防といった瀬戸内海世界に止まらず、対馬宗氏とのつながりを持ち、ひいては大陸に至るものであった。こうした事実は蓑島・今井津の発展が今日の我々の想像を遙かに超える水準に達していたことを意味するだろう。この応永二年には彦山座主も同様に朝鮮に使を送っており、豊前地域の有力者が海上ネットワークで大陸と緊密に結びついていたことは注視に値する。蓑島はまさにそうしたネットワークの中核を担っていたのである。