戦国の争乱と今井津

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 一六世紀に入ると今井津は一層の発展を遂げるとともに、相続く戦乱のなかで争奪の対象として立ち現れてくる。また都市民はさらに成長をとげ、領主から独立した新たな宗教的・政治的行動を指向するようになった。戦国の世を迎えた今井津がどのように歩んだのかを探ることにしたい。
 一五世紀最末の明応年間、大内氏と大友氏の間には政治的な緊張関係が強まり、明応七年(一四九八)一〇月に豊後から大友親治(おおともちかはる)の軍勢が侵入した(永正二年七月「佐田泰景軍忠状」佐田文書)。失脚した前将軍足利義材(あしかがよしき)を擁する大内義興(おおうちよしおき)に対し、幕府は大友・少弐・阿蘇ほかの諸氏に攻撃を働きかけたのである。これに加えて大友氏家督をめぐる内紛に義興が介入したことも、大友軍の侵攻を招く一因となった。
 攻勢を強める大友軍に対して守勢一方であった大内方は、文亀元年(一五〇一)に至り漸く反撃体制をとった。両軍は京都平野の各所で衝突し、交通の要所であった今井津一帯も戦場と化している。とりわけ同年閏六月二四日には沓尾崎で両軍は激しくぶつかり、大内方の仁保護郷(もりさと)は多くの配下とともに戦死したことが知られている(同年八月三日「仁保興棟軍忠状」三浦文書)。先にもふれたように仁保氏は京都郡に所領を持ち、一族のうちには今井津から梵鐘を取り寄せる者があるなど、当地と深い関わりを持っていたとみられる。護郷の姉妹には企救の麻生(あそう)氏や筑前の千手(せんず)氏に嫁している者があり、もとより豊筑方面に通暁していたのであろう(「三浦系図」同前)。沓尾崎の戦は戦闘の規模が大きく、護郷が率いた将兵だけでも討死三四名、手負い三〇名を出している。また馬ヶ岳(うまがたけ)城に拠っていた大内方の城将杉弘隆(すぎひろたか)も戦死したと伝えられる(『歴代鎮西志』)。大友方では波津久忠兵衛(はづくちゅうべえ)が戦傷を蒙っており(同二年三月一〇日「大友親治知行預ヶ状」大野波津久文書)、双方に大きな被害が出ていたことを窺わせる。翌七月には馬ヶ岳城を中心に両軍の攻防は続き、同二三日に遂に大友方は敗北し豊前から撤収していった。史料には見えないが、この攻防戦においても今井津一帯は戦闘にまきこまれていたと考えるべきだろう。
 こうした戦乱にもかかわらず今井津の機能は低下することなく、物流の結節点として成長を維持し、都市民の活動はさらに活発なものとなっていた。享禄年間と推定される「沓屋守郷(くつやもりさと)・実任連署書状」(友枝文書)によると、今井津を給与されていたのは筑前嘉穂の千手与一左衛門であったことがわかる。同書状は椎田(しいだ)を管理する友枝(ともえだ)氏に対し、税として徴収した銭を米に換えるよう命じたもので、その際に相場を今井津の千手氏に問い合わせることを指示している。これは近隣一帯において今井津が商業の拠点として認識されていた証拠となろう。また天文二一年(一五五二)一一月の「豊前津濃熊庄名寄帳」によると(平賀文書)、津隈荘の年貢を蓑島の藤左衛門尉が周防の小郡まで搬送しており、海運も依然活発であったことが窺われる。