都市民の動向もこのころからより具体的な像を結び始めてくる。時宗の教線が今井津に延びていたことは既に述べたが、一五世紀末になると次第に浄土真宗が浸透し、当津にも浄喜寺(じょうきじ)が創建された。同寺が所蔵する「浄喜寺寺号書下裏書」によれば、その寺号は明応四年(一四九五)九月に本願寺第九世門主の実如(じつにょ)上人から直接に与えられている。同寺の創建がそれを遡るものであることは言うまでもないだろう。創建の主体は後に六党(ろくとう)と称される当津有力氏族のひとつ村上氏で、住持も初代慶善(けいぜん)以下、同氏から入っている(同寺所蔵「村上系譜」)。伊予水軍の村上一族との関係が窺われる同氏はもとより海民であり、その幅広いネットワークを背景に、実如上人と直接繋がりを持つに至ったと見てよいだろう。浄喜寺はこの後豊前一帯の真宗門徒の中心を占め、門主と直接に結びついて活発な動きを見せることになるが、そうした性格は創建まで遡るものだったと推測される。
また一六世紀に入ると伊勢神宮の御師による伊勢信仰の布教活動が進み、豊前についても檀那となった人々が記録されている。伊勢御師の橋村氏は、中国・九州方面に教線を延ばし、使者を派遣して多くの檀那を獲得した。同氏が享禄五年(一五三二)に作成した檀那帳には、今井津の分として福嶋七郎佐ヱ門が見えている(「伊勢神宮御師橋村氏御祓賦帳」)。この福嶋氏も村上氏と同様に六党の一角を占める一流で、同津を代表する勢力であった。今井祇園社の創建伝承においても福嶋・村上両氏が勧請したとするものがあり、同社の動向にも深く関与していたのである。
今井祇園社の祭礼も右のような有力者らに後押しされて大きく発展を遂げた。同社で今もなお伝承されている祇園会は、連歌会・山車の巡行・八撥(やつばち)とよばれる稚児の神事から構成されているが、その基本的な枠組みはこのころ本格的に整備されたと見られる(口絵参照)。祇園会は御霊(ごりょう)を鎮め災厄を取り除く祭りで、中世を通じて京から各地に、とりわけ都市的な場へと広がりを見せた。大内氏は京都の文物を重んじその伝播を図っていたから、豊前でもその影響を受け各地で祇園祭が催されるようになったと推察される。
当津において祇園会がいつから始業されたのか判然としないが、同時に執り行われる連歌会は、享禄三年(一五三〇)に福嶋信真が宗匠(そうしょう)となって興行したと伝えられている(「発句帳序説」末次文書)。須佐神社には同年以来書き継がれてきた発句帳がかつて蔵されており(現在所在不明)、これを裏付けることができる。享禄三年という年はおそらく、定期的に連歌会が催されるようになったことを示すもので、不定期な連歌会は更に遡る形で行われていたと見てよいだろう。そののち福嶋氏に続いて村上氏が加わり、さらに辻(つじ)・末次(すえつぐ)・守田(もりた)・庄野(しょうの)の各氏も参加することで発展していった。ここに見える六氏がいわゆる六党と呼ばれる人々で、中世今井津を代表する有力者であった(行橋市教育委員会『今井祇園祭』)。