大友・毛利両氏の攻防

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 弘治三年(一五五七)四月に大内氏が滅亡し、豊前一帯に大友軍が進出すると、その阻止をはかる毛利氏と激しい戦闘が繰り広げられた。永禄年間に入るころには大友氏が豊前主要部の制圧に成功したが、毛利方からの断続的な攻撃は依然続いていたのである。とりわけ今井津一帯は戦略上の要衝であったから、何度も両軍の衝突が見られた。永禄二年(一五五九)前後に大友氏は、毛利水軍の行動を警戒して、津・浦における悪党の狼藉に備えるよう指示を出している。この指令において今井は、豊前における津・浦の代表として小倉とともに明記されている(一〇月一〇日「大友家年寄連署状」佐田文書)。港湾としての機能、軍事的な重要度が、小倉と並んでいたことは注目に値しよう。実際、永禄四年に門司城の争奪戦が始まると、兵站の撹乱を狙う毛利水軍が今井津近辺に現れ、同年九月六・二八日に蓑島付近で両水軍の衝突が確認される(同年一〇月一〇日「児玉就方軍忠状」児玉惣兵衛文書)。さらに同年一一月に大友軍が門司攻城戦に失敗して敗走すると、毛利方の水軍は蓑島・元永にあった大友方の軍船を撃破して京都平野に上陸し、掃討戦を展開した(同年一一月一五日「毛利隆元感状」村上図書文書)。大友方の将田原親宏が発給した文書からは、毛利方の軍勢が小早川の率いる乃美(のみ)・能島(のしま)・来島(くるしま)の村上水軍であったと分かる(同一一月一六日「田原親宏感状」)。こののちも永禄年間を通じて京都平野一帯は両軍の抗争が続いており、今井津も断続的に両軍の戦闘に巻き込まれたことが予想されるのである。
 元亀年間に入ると大友氏による豊前支配は安定を迎え、今井津も再び落ち着いた状況を取り戻している。先にも触れた伊勢御師橋村氏のもとには、永禄七年(一五六四)・元亀元年(一五七〇)の檀那帳が残されているが、この二年分を比較してみると、前者が福嶋氏二名・守田氏一名(史料では森田と見える)の計三名を記すに止まるのに対して、後者になると福嶋氏三名、末次氏・常正寺・三江氏・内堀氏各一名の七名に拡大している(「伊勢神宮御師橋村氏御祓賦帳」)。御師に檀那として応じる階層がわずかの間に倍加しており、今井津がさらに富裕な都市民を増加させていたことを予想させるのである。
 天正三年(一五七五)薩摩島津(しまづ)氏の有力者島津家久(いえひさ)は、薩摩・大隅・日向の平定が成功したことを謝すため伊勢への参宮を行った。その途上に、家久は豊前を南から北へと横断し、今井津にも立ち寄っている。彼の日記によると、同年三月七日に城井を発ち、馬ヶ岳城を左に見つつ今井津に至ったとある。今井では矢野(やの)次郎五郎という人物の家に投宿し、晩には六党の一角を占める辻雅楽助の訪問を受けている。その翌八日も逗留して蓑島を遊覧、九日に至って今井津を後にしている。三日に亘る滞在は家久の旅程のなかでも珍しく、当津が積極的な歓待をしたことの現れかと推測される(「家久公上京日記」島津家文書、写真23)。情報に通じた当津の人々は、破竹の勢いで南九州の統一を進めた家久の力を十分に認識して、応対に当たったのであろう。
 
写真23 家久公上京日記
写真23 家久公上京日記(島津家文書 東大史料編纂所所蔵)

 天正六年(一五七八)に大友氏が日向耳川(みみかわ)で敗北し弱体化すると、豊前でも反大友勢が蜂起し、戦闘は豊臣秀吉が九州平定に乗り出すまで断続的に継続した。当津に関わる戦闘としては、天正七年の蓑島争奪戦が注目される。それまで毛利方にあって松山城の防衛などに当たっていた杉重良(すぎしげよし)が、同年正月に大友方へ寝返って蓑島へ渡り、一帯は激しい戦場となったのである(同年正月一八日「毛利輝元書状」杉七郎左衛門文書)。杉重良は、大友の将田原親宏と連携して同島を守り、攻める高橋氏・長野氏を退けている。この戦いは大橋付近にまで及んでおり、百人単位の戦死者を出したことが知られている(三月七日「大友円斎書状」入江文書/大分県史料一〇)。