一 中世山城

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 行橋市が所在する京都平野の中世山城については、『豊前古城記(ぶぜんこじょうき)』、『豊前志』、『京都郡誌』、『福岡県中世山城跡』、『行橋市の文化財』などの研究書がある。特に『豊前古城記』は市町村史に大きな影響を与えている。
 『豊前古城記』には『安政(あんせい)二年写 豊前古城記』、『明治廿四年写 豊前古城記』、『福岡県郷土叢書第一輯収録 豊前国古城記』、『豊州雑志(とよくにざつし)収録 豊前古城記』、『東京大学蔵 豊前国故城記(こじょうき)』、『京都郡誌収録 豊前古城記』などがある。部分的な写本を入れると一〇を超す類似本がある。これらは、表紙は『豊前古城記』であるのに、奥書は『豊前国古城記(ぶぜんくにこじょうき)』となっているもの、またその逆の場合もある。さらには、古城の古に故を使っているものなどもある。今のところ種本(たねほん)は一つで、それから派生したものと思われる。今後校訂をしなければならない。本章では、引用に当たって写本年代もしくは所蔵者を明記し、今後に期したい。
 これらの研究書と『京都郡誌』、『福岡県中世山城跡』、『行橋市の文化財』などを頼りに、まず、現地踏査と古文書から城郭の確認作業を行い、あわせて、字名(城の腰(じょうのこし)、城山(じょうやま)、切寄(きりよせ)、シロトコ、釜蓋(かまふた)など)調査や地元の聞き込み調査によって城郭の確認を行った。現地には、想像以上に、郭(くるわ)、竪堀(たてぼり)、畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)、横堀(よこぼり)、堀切(ほりきり)、土塁(どるい)、切岸(きりぎし)、石垣などの施設が残っている。
 確認された城郭は『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』、『大分県史料』、『黒田家譜(くろだかふ)』などに収録されている軍忠状(ぐんちゅうじょう)、感状(かんじょう)、寄進状(きしんじょう)などの古文書を基にその背景に迫る方法をとった。
 九州城郭研究では、砦、館、山城など無区分で城として取り扱ってきた経緯がある。その反省に立って、中世の城郭をその役割から、本城、戦略的城郭と戦術的城郭に分けてみた。本城は守護職級の持つ城郭で、豊後国では高崎城(たかさきじょう)が、周防国(すおうのこく)では高峯城(こうのみねじょう)がこれに当たる。豊前国では天正以降に馬ヶ岳城、中津城、小倉城がこの機能を果たす。その規模は大規模である。
 戦略的城郭は城井(きい)氏、西郷(さいごう)氏や長野氏など在地領主の持つ城郭で、犀川町神楽城(かぐらじょう)、築城町大平城(おおひらじょう)、犀川町西郷城、北九州市長野城(ながのじょう)などがこれに当たり、在地支配に密接な関係を持っている。その規模は中規模である。
 戦術的城郭は戦いの様子に応じて造られ、概して簡素で小規模であり、端城(はしろ)、半城(はしろ)、出城(でしろ)、取手(とりで)、掻揚(かきあ)げなどと呼ばれている。戦闘の勝ち負けに関係なく破棄されることもある。この種の山城が最も多いが、治安維持施設をもつ居宅(館、宅所)も含まれている。
 戦争施設という観点から陣地もあるが、今回はそれについては触れない。
 豊前国においては、天正一五年頃から豊臣政権下の在地勢力の武装解除の影響を受け山城は激減する。その一方で本城や戦略的城郭は政治的な施設や行政的な施設が密集する場所、家臣団や工人(こうじん)や商人なども含めた居住区域が整備された御城(おしろ)が整備され、中世城郭の概念では捉えられない巨大な城郭へと変化する。北九州市小倉城、中津市中津城と福岡市舞鶴城などがこれに当たる。さらに、大臣(たいしん)たちに預け維持していた戦略的城郭(北九州市門司城(もじじょう)、香春町香春城(かわらじょう)〔この場合鬼ヶ城(おにがじょう)をいう〕、添田町岩石城(がんじゃくじょう)、耶馬溪町一戸城(ひとつとじょう)など)も元和(げんな)元年(一六一五)には破棄される。