蓑島城

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 蓑島城は行橋市大字蓑島に所在するといわれている。
 蓑島は江戸時代明治時代にかけての開作(かいさく)によって行橋市街地や今井と陸続(りくつづ)きとなった。
 今日、城郭を確認するには三つの方法がある。一つは古文書による方法。今のところ古文書では確認できていない。つぎは現地の地形や遺構の調査による方法である。島の北側の尾根先端(おねせんたん)を城跡とする見解と島の中央部山頂を城とする見解がある。北側は城跡を示す遺構を確認できていない。島の中央部山頂は小形単郭の可能性は捨てきれないが、ひと目で山城と判断できる遺構は見当たらない。島の北端付近に石垣がある。これを城ありの証拠とする考えがある。中世城郭の石垣は技術的に異なり、さらに、中世城郭には石垣を用いることは極めて少ない。もう一つは地名による方法である。これによると、島の中央部山頂の通称は城ヶ(じょうが)辻である。この地名の場合、わずかの確率で小規模の山城が存在することがある。また、島の北端の字が城(じょう)であることを城ありの証拠とする考えがある。城という字に城郭がある場合もあるが、岬の先端を示す場合も多々みられる。さらなる研究を要する。
 諸物語本、研究書に「蓑島に城あり」の記事は、次の二つの合戦が蓑島で行われたことに起因していると考えられる。
 永禄年中に大友勢と毛利勢は北部九州(豊前国、筑前国)の覇権を争った。
 永禄四年(一五六一)一〇月一〇日、児玉就方から井上又右衛門尉へ宛てた軍忠状(ぐんちゅうじょう)には、九月六日および二八日に蓑島表で行われた一連の合戦の状況が記されている。「九月六日に豊前蓑島において船八艘、人十三人生け捕ったこと」、「九月二十八日、蓑島表において頸(くび)一を桑原雅楽助、同惣左衛門尉、豊島又五郎らが打ち取る。また、高束神右衛門尉、内藤丞小者七郎、多田助太郎らも頸一を討ち取る」などと記している。
 天正七年(一五七九)、杉重良は毛利氏に背き、田原親宏(宗亀)を頼り大友氏に仕えたいと申し入れ、軍勢を率いて蓑島に渡海した。五月六日付で毛利輝元から長野三河守に出された感謝状に「四月二十八日蓑島に着いた。箕島での合戦では防戦して、宗徒の者を多数討取った由」と記し褒めている。
 これら二つの合戦で天然の要塞である蓑島を根城に選んだのは今井津など中枢に近い島であったからだろう。これらの合戦が豊前地方の歴史に占める位置は大きい。