馬ヶ岳城

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 大谷城ともいう。行橋市大字大谷(おおたに)および大字西谷(にしたに)にまたがる馬ヶ岳(西山と東山)を中心に、この北側山麓に広大な城域を持っている(図3)。一部犀川町大字花熊にも広がっている。馬ヶ岳は馬ヶ嶽、馬の岳、むまのたけなどと書かれている。西山から東山にかけて八個の郭とこれから派生した尾根筋四カ所を堀切で遮断防備している。この山頂部分の遺構は比較的古く造られたとみられる。北側斜面に造られた土塁は、天正一五年(一五八七)に豊臣秀吉御動座(ごどうざ)に伴って小早川隆景の手によって急造されたもので、広大な城域を造り出している。この土塁は長さ約五〇〇メートルの規模で、畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)と横堀(よこぼり)が併設されている。
 
図3 馬ヶ岳城縄張図
図3 馬ヶ岳城縄張図(筆者作図)

 応永一二年(一四〇五)一一月一七日付で渋川満頼から詫摩氏へ宛てた書状に「豊前陣は去八日鳥越えの敵城を攻落した。後やがて、香春の一岳と二の岳及び馬ヶ岳を攻落した」と記している。少弐資頼方渋川氏と探題(たんだい)方大友氏が豊前国の支配権を争った応永(おうえい)一二年には馬ヶ岳に城が存在したことが分かる。
 文明八年(一四七六)六月一三日付で豊筑の奪還(だっかん)を目した大内正弘から宇佐郡衆へ宛てた手紙に「去三月二十七日海を渡って豊前国に至り、滝池山に陣取った。馬ヶ岳岩石(がんじゃく)両城の凶徒等を追払った」と記している。
 文亀(ぶんき)元年(一五〇一)八月一三日付で大内義興から門司民部丞へ宛てた手紙に「去月二十三日、豊前国小馬岳詰口において凶徒大友勢同少弐勢を當日ことごとく追払った。合戦の時、太刀討粉骨之次第、杉木工助弘より報告があった」と大内方の勝利が記されている。
 弘治二年(一五五六)八月二〇日付神代(こうしろ)余三兵衛尉へ宛てた大内氏奉行連署書案(ぶぎょうれんしょしょあん)によると、秋月氏は大内氏以下の城督(じょうとく)神代余三兵衛尉が守備していた馬ヶ岳城をさしたる抵抗もなく攻め落している。
 弘治二年と思われる一二月一八日、田北鑑生から須江上総介などへ宛てた軍忠状に「馬岳を攻め落とした時、敵を分捕ったこと等勵忠仕ったこと、田原親宏より報告を受け承知している」と記されている。
 中国の周防国、長門国、安芸国の覇権を握った毛利元就は出雲国の攻略とともに九州の侵略を企てた。豊前国規矩郡門司城、京都郡松山城、同馬ヶ岳城などで大友勢と長年にわたって衝突を繰り返した。この時のことを永弘文書、佐田文書など多くの文書から知ることができる。
 某覚記案(ぼうおぼえきあん)の弘治三年(一五五七)七月四日の項目に「馬嶽落居し 城督ヨシガイ同ミナキ甲斐守その外秋月衆百計を討取った。一方で、田原方同衆松木甲斐、萱嶋など討死した」と勝利した大友勢も甚大な犠牲を払った様子が記されている。
 弘治三年九月一〇日付、大友宗麟は田原常陸介、木付紀伊入道、大神兵部小輔入道、田北弥十郎、田原近江守、奈多大善大夫ら国東衆へ宛てた手紙に「その表の事、心元なく存じている。様子をつぶさに書き記し報告する事。各辛労の気遣い申すに及ばない。しからば加勢の衆の事、きびしく下知を加え必ず着陣するので、御安心ください。馬ヶ岳城米の事は承知した。黄金五十両を申付け送った。申すまでも無いことである」と、記しており、手中に収めた馬ヶ岳城の維持のため並々ならぬ決意がうかがえる。
 永禄二年(一五五九)九月二日付、大友義鎮から安心院中務太輔、佐田彈正忠へ宛てた手紙に「門司城や花尾城の残党を討ち果こと、田原常陸介同民部太輔にかさねがさね申遣した。しからば、馬岳城之事は両人相談されて、勤番することが大切である。暫時の事であるので斟酌なく馳走の事」と、大友方にとっての馬ヶ岳城の重要性が記されている。この外にも田原親弘から「暫時、馬岳御城の勤番は大切である」の手紙が宇佐衆や国東衆などに出されている。
 永禄八年九月二三日付で大友宗麟から渡辺式部輔へ宛てた手紙に「馬岳の軍勢取の事について浦部衆必ず出張するように申し付けたことについて、たちまち辛労であるが、早々出国すること。城誘の事、堅固く觸申すべき事」と記されている。
 嶋津家に伝わる中書家久御上京日記の天正三年(一五七五)三月七日の項に彦山から仲津郡内を下り今井へ向かう途中、「紀伊(城井)殿と言う人の隠居所を一見。それより行くと左側に馬のたけといって長野殿の城あり」と記している。
 『九州御動座(ごどうざ)』には天正一五年(一五八七)三月二九日のこととして「但(秀吉公は)中一日御逗留。此馬のたけは長野という侍が数年持っていた山城である。二千ばかりの兵を抱えていた。去年より無二に御味方となった仁である」と、記している。ちなみに、天正一四年一二月二六日付で、小早川隆景から新屋右衛門尉へ宛てた手紙に「今度、長野方より御当家に入魂之段「見方にして欲しい)、最前より気遣あり、頓入眼候」と記している。これをもって長野氏は馬ヶ岳城を失う。
 『黒田家譜』によると、孝高は香春岳に陣取って豊臣秀吉公の下向をまち、その他、見方の諸軍は松山、馬ヶ岳などに陣を取って天正一五年正月を迎えている。
 天正一五年三月三〇日付で黒田勘解由(かげゆ)へ宛てた御朱印状に「殿下は昨日馬岳に御着座なされた。明日、秋月表に移られ御座なされる」と記している。秀吉公が馬ヶ岳城に逗留したことは『九州御動座記』にも記されている。
 天正一五年七月三日付の御朱印状で黒田勘解由に「今度恩地として豊前国京都、築城、仲津、上毛、下毛、宇佐六郡の宛行を承認する。ただし、宇佐郡内妙見、龍王両城は当地行分から除く。その他は全を領地として承認する」と記されている。これを機会に黒田孝高は宇佐郡時枝城に入る。その後、孝高は築城郡八田の法念寺を仮の宿とし、しばらく留まっている。黒田長政は京都郡馬ヶ岳城に在城しており、中豊前の政治的軍事的要(かなめ)として用いている。
 『黒田家譜』によると、「はじめ馬が岳を居城とし給しが、其境地、心にかなわないので、後に下毛郡仲津川に城を築いて、移った」と記している。
 慶長五年(一六〇〇)に豊前国に入部した細川忠興は馬ヶ岳城を使用しなかった。
〈付記〉
 昭和五一年に発刊された『行橋市の文化財』(行橋市教育委員会編)に、右記のほかにも行橋市内に福富城、平島城、稲童城、崎野城、長尾城、二塚城、稗田城、須磨園城のことが書かれている。しかし、現地の確認も古文書でも確認ができなかったので、ここには掲載しなかった。今後の調査が必要である。