松山城

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 苅田町大字松山に所在する。標高一二八メートルの独立丘陵で、周防灘(すおうなだ)に飛び出した岬にある。土取りなどによって甚だしく欠損している。一五個以上の郭、石垣、石段、土塁、横堀、畝状竪堀群、長大な土塁で構成されている。長大な土塁は山麓に広大な城域を造り出している。郭(くるわ)と郭を繋ぐ通路が発達している。瓦が多数散乱する建物跡が数カ所確認できる。瓦葺建物や石垣、石段、長大な土塁は天正一五年の改修によると考えられる。
 観応(かんおう)三年(一三五二)六月付、北朝方として戦った西郷式部大夫有政申度々軍忠状に豊前国における南朝と北朝の戦況が記されている。そのなかに「観応二年十一月豊前国苅田城を攻めた時、有政には、今警固の両方関所へ若党等を差遣した。連日合戦にいたる。十一月十二日まで當城没落の時の忠節事」と松山城に関して記されている。苅田城(松山城)は南朝の支配下にあったことが分かる。
 陶晴賢(すえはるかた)を倒した毛利元就は、豊前国筑前国の権益確保のため軍を九州に進めた。規矩郡門司城が主戦場であるが、松山城も重要な役割を果たした。
 弘治二年(一五五六)九月二十日付で大友義鎮から戸次中務少輔へ宛てた手紙に「八月十三日に松山城切岸で、手に疵を追ったことは感謝に耐えない」と記している。永禄四年(一五六一)一一月一六日付で田原親宏から如法寺式部少輔へ宛てた手紙に「去五日門司表陣で以外にも敗軍してしまった」と、大友勢の敗北が記されている。永禄四年一二月八日付小早川隆景から小笠原長雄へ宛てた手紙に「豊筑は普段と変わりない様子である。だからといって、高橋鑑種には豊前規矩郡を攻めさせたいので、苅田松山城に取り付いている。国中を見渡し堅固で、在所の第一の城である」と記している。永禄四年大友勢との合戦後数年、杉松千代(重良)幼年につき、松千代の居城豊前国松山城に天野紀伊守隆重を在城させ補助させている。松千代も隆重と同様に在番した。この時、松山城には天野隆重を手頭として内藤新右衛門、毛利治部大夫それに朝倉兵庫頭、大田伊豆守、青景彦太郎らが勤番を命じられ、豊前国の権益確保に奔走している。毛利輝元は豊前国(松山城)から帰陣した。
 永禄五年(一五六二)九月一三日、九月二六日など松山城切岸などにおいて七度合戦が起っている。
 永禄六年(一五六三)正月二七日付で、神代(こうしろ)若狭守、守田越中守、岩武備後守、内藤小次郎から粟屋木工允、児玉小次郎、粟屋彌次郎へ宛てた毛利隆元奉行奉書に「今日二十七日松山御城に至り、敵取り懸る、牛刻より申刻まで、互に防戦したといえども」と記されている。この合戦で松山城切岸において杉重良(松千代)配下の内藤大善進、小阪三郎、千鎌彌六、原六郎が負傷したことを天野隆重に報告している。大友方として奈多氏、田原氏が松山城を攻めている。
 永禄一一年(一五六八)の筑前国立花陣の時、豊前国松山城に在番して、大友勢との間で数度の合戦が繰り返されている。田北弥十郎鎮周が大友宗麟に差し出した「松山城合戦手負戦死注文一見状」や杉重良(すぎしげよし)が毛利元就、毛利輝元へ差し出した「杉重良分捕并手負い討死人数注文」から戦闘の激しさを知ることができる。
 永禄一一年一二月一二日付毛利輝元、毛利奉書には、松山在城一所衆として、田原余二郎、安藤縫殿允、伊佐源七郎、庄筑後守、安藤九郎外五名の名が杉重良(七郎)に伝えられている。また、永禄一二年後(うるう)五月六日には、毛利輝元、毛利元就から岩武對馬守へ「松山普請の事」見極めて速やかに実施することが言い渡されている。
 永禄一二年(一五六九)一〇月二八日付で、吉弘左近大夫から立花勤番各御中御陣所へ宛てられた手紙の中に「元就、輝元様體未申来候、松山香春ヶ嶽長岩の各城を攻め落とされました。門司城に籠城の衆に詫言の最中です」と、立花城表のみならず松山城を初め各城でも大敗し、城を明け渡している。これを期に毛利勢は豊前国の大半から撤退し、門司城を死守することとなった。
 永禄年中、毛利元就と大友宗麟は筑前国、豊前国の覇権をめぐって争ってきた。永禄七年には足利幕府の命を受けた久我春通、聖護院(せいごいん)道増の斡旋もあったが、結局両者の争いは永禄一二年まで続いた。
 天正七年(一五七九)九月二八日付、長野助守署名の覚えに「一、豊筑立柄の事。付松山城普請を御延引の事」と記している。この覚えを解するに当たって誰に宛てた覚えなのかが重要な要点となる。毛利方に宛てたものとすれば、大友方から命じられた松山城の修理を引き延ばしていることを伝えていることになる。
 『黒田家譜』には天正一四年一〇月一六日以降、宇留津城攻撃までの間のこととして、「孝高は豊前国京都郡の内、苅田と云う所に陣を替えられた」と記している。この苅田とは松山城を指している。現地に残る石垣、土塁、石段それに瓦は、この時の改修によるものである。『黒田家譜』によると、黒田勢は天正一四年の暮れを松山城で越年している。これを最後に松山城は記録から姿を消す。