等覚寺城

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 苅田町大字山口字城山(じょうやま)に所在している。山口城ともいう。白川(しらかわ)の穀倉地が一望できる。当城の一部を改変して修験(しゅげん)でよく知られている白山多賀神社(はくさんたがじんじゃ)が祭られている。しかし、山城としての形態はよく残っており、約一五個の郭、土塁、堀切、上下三段の畝状竪堀群などの遺構が確認できる。中規模の山城である。
 宇佐市到津文書の某覚書案に永禄一一年五月三日の出来事として「長野筑後守江量忍入が殺害されました。これは到津被官者が仕出かしたことです。また毛利家より三岡(三岳城)等覚寺の通路に当たる宮尾城を占拠されました。(中略)等覚寺は長野三河が持ちこたえ、至豊州進上候」と記されている。さらに、永禄一一年「九月四日に小三岳は落城し、九月五日大三岳も落城。同夜に等覚寺も落城しました。長野兵部左京は打たれた」と記されている。
 平安時代末以来、規矩郡長野を本貫としていた長野氏は、永禄一一年大友氏の影響下で、毛利勢(吉川(きっかわ))と小倉南区三岳城を主戦場として戦った。この合戦での敗北は、長野氏が規矩郡から撤退する原因となり、その後大友氏の影響下で京都郡に基盤を移した。