勝山町大字上野(うえの)集落の西、障子ヶ岳頂(標高四二七メートル)に所在している。田川郡境に位置し、八個の郭がある。郭を防備する土塁は良く発達している。城内への通路や小口が造られている。堀切より南側にある二個の郭などは古い形態が残っている。その外は天正一四年に改修されたものである。
長享元年(一四八七)一一月二日付で門司親国から神代次郎兵衛門へ宛てた手紙に「御上洛の時は我らも御供するつもりでいましたところ、障子岳御城の番を仰せ付けられたことは、心外でございます。子供の三郎四郎に城番を努めさせ、自分は今度の上洛の御供をしたい。帰ってからは必ず城番をいたしますのでよろしくお取り計らい願いたい」と記され、大内政弘の花押が書かれている。
大永二年(一五二二)三月付、左衛門尉名のある「就宇佐宮御作事方条々御法度事」に「宇佐郡衆中の武領と社用の夫役について、所々に沙汰無くにおいては、普常に仰せ付ける。とくに院内衆は御在京で御留守以来、御神用の夫役が難渋と言って、既に障子岡御城の勤番をしている者を近年社所用にあてた。向後、社用の夫役は堅く申付ける。もし、難渋においては元の通り、御城誘を仰せ付る」と記されている。障子ヶ岳城の勤番が宇佐郡衆に課せられていたことが分かる。
享禄五年(一五三二)三月八日付で沼間敦定から長岡実勝へ宛てた手紙に「父大炊允盛眞以来遠田石見守広常に付き随って、亀尾御城ならびに妙見尾、殊に近年障子岳に在城のことは、去年まで忠節を尽くしたこと、興兼の言上をつぶさに披露いたしました」と記している。大内勢が障子ヶ岳城を使用している。
天正一四年(一五八六)一二月一日付で、秀吉公から小早川左衛門、安国寺、黒田勘解由へ宛てた手紙に「去月十五日、障子岳に攻めかかったところ、彼城こぼれ落候處を数多討捕ったこと、尤もなことである。その上香春岳も包囲した。寒天の時に、下々まで辛労段、是非には及ばないことである」と勝利を労っている。
『黒田家譜』は「豊前国京都郡障子嶽の城を攻落さる。是は香春岳の城主高橋右近元種(もとたね)が端城(はしろ)なり。香春岳の向かいに在って」と記している。