城井城(きいじょう)、神楽(かぐら)山城ともいう。なお、天正一四年以降の城井城は、築上郡築城町大字寒田(さわた)に所在する大平城(おおひらじょう)を指す。『豊前国古城記 安政六年写』には「城址 一ヶ所 馬場村の内神楽城 右は城井乃祖先は今居津住居 後に此城を取り建てる」と記している。犀川町大字木井馬場字神楽城の神楽山(標高三七二メートル)に所在する。山頂を中心に約二〇〇メートルの規模をもち、主郭や腰郭など約二〇個の郭、土塁、畝状竪堀群、堀切などが設けられている。仲津郡内で最も大きな山城である。現在見ることができる遺構は、永禄後半の施設を天正一四年頃に改修が加えられたものと考えられる。麓の社には荒倉大明神と宇都宮大明神が祭られていた。
応安七年(一三七四)二月三日付で大友親世(ちかよ)から田原氏能(しよし)へ宛てた手紙に「霜台(今川了俊)に合力のため、豊前へ進発の事、先日申しました事。豊前に遣わした使者は今朝、帰ってきました。城井を焼き払われました事。城郭に追い入れられましたことなど、今のようでは、要害も落居するであろうこと承知」と記されている。この要害は神楽城を指している。
応永一二年(一四〇五)一一月一七日付で渋川光満頼から詫摩満親に宛てた手紙に「きくちの二郎 おおむら去二十八日小崎に陣を取った。今月九日御方よりの城井手に対して城攻めの間」と記されている。この城とは神楽城のことである。