豊津台地と新田原台地の間の標高一八メートル前後の沖積低地に位置する。遺跡は旧河道にはさまれ島状に残存した自然堤防上に立地していた。平成三年に草場・竹並地区の農業基盤整備事業にともない、三〇〇〇平方メートルが調査された。
弥生時代前期から室町時代前期までの複合遺跡で、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、土壙墓、溝などが検出された。中世の遺構は、土壙墓二基と溝一条である。
1号土壙墓は、長軸二・二メートル。短辺は北側がやや広く〇・八五メートル、南側が〇・六五メートルで床面はほぼ平坦である。白磁碗と土師器の皿が副葬され、頭を北に埋葬されたと推定される。出土品から一二世紀後半頃のものと考えられる。2号土壙墓は、一・七五メートル×〇・九五メートルの隅丸長方形である。副葬品はないが1号土壙墓と主軸をほぼ同じくし、並列するような位置関係であることから同時代の墓である可能性が高い。
中世の溝は調査区の南側を東西に横断し検出面で幅一~一・八メートル、断面は逆台形で深さ約五〇センチメートルである。
溝の底部から石製五輪塔の部材が出土している。一四世紀後半から一五世紀に墓塔として造立され、その後溝に投棄されたと推定される。五輪塔は土壙墓とは時期差があり土壙墓にともなう墓塔ではない。調査区北側の墓地にも五輪塔の残欠が認められ、中世後期の墓地が付近に存在したことを窺わせる。