11 下稗田森(しもひえだもり)遺跡(行橋市大字下稗田字森ほか)

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 弥生時代中期・古墳時代後期・平安時代・鎌倉時代に断続的に営まれた集落跡で、中世では、平安末から鎌倉前期と推定される屋敷地・墳墓の遺構が中心である。古代では、弥生・古墳時代竪穴住居跡・掘立柱建物跡、柱穴群が確認された。標高二〇メートル前後の調査地点は、真言宗・大吉寺境内であった。遺跡の立地は、京都平野中央部の丘陵地帯で、丘陵東側には長峡川が北流する。稗田小学校グラウンド拡張工事に伴い、平成七年度に二六〇〇平方メートルが調査対象となった。調査主体は行橋市教育委員会。遺構・遺物の概要は次のとおりである。
弥生時代掘立柱建物跡一軒/弥生土器、石剣片 竪穴住居跡四軒/弥生土器
古墳時代竪穴住居跡一軒/土師器、須恵器
平安・鎌倉時代溝、墓、柱穴/土師器 輸入陶磁器、青磁〓、銭貨
江戸時代一字一石経塚(約四二〇〇〇個の経石出土)
時期不明土塁、溝

 1号墓 平安末から鎌倉時代前期の墳墓。木材の一部が検出されたことから木棺墓と推定される。頭位はほぼ北方向。平面形は隅丸長方形。墓坑は長さ約二・一メートル、幅約〇・七メートル。壁面に直径八センチメートル前後の凹地があり、約三〇センチメートル間隔で並ぶ。副葬品は、湖州鏡一、青磁椀(龍泉窯系Ⅰ-Ⅳa)一、青磁皿片一、土師器小皿五、銅銭一。墓の造営時期は一二世紀後半から一三世紀初め頃である。土塁や溝は中世の屋敷地の一端と推定される。当遺跡北東の大分八幡宮周辺にも区画溝状の地形が分布する。
 
写真12 下稗田森遺跡 1号墓副葬品出土状況
写真12 下稗田森遺跡 1号墓副葬品出土状況

写真13 下稗田森遺跡 足鍋出土状況(SK14)
写真13 下稗田森遺跡 足鍋出土状況(SK14)