天正一四年(一五八六)四月、九州で覇権を争う薩摩の島津義久(よしひさ)に攻められ、窮地に陥った豊後国府内の大友義鎮(よししげ)(宗麟)は、大坂城の豊臣秀吉に拝謁して、島津攻撃の援軍を要請した。秀吉は前年の一〇月に、大友・島津の両氏に対して、双方和睦の綸命を伝えていたのであるが、島津氏の攻勢は秀吉にとって、「御意に背き候処、幸の儀」(「豊臣秀吉書状」、『増補訂正編年大友史料』巻二七)であった。秀吉はかねてから、日本国内の統一に止まらず、朝鮮半島、さらには中国大陸までも掌中にする、広大な覇権構想を描いていたのである。九州平定は、その野望達成には不可欠の要件であり、島津氏の綸命背反は、秀吉の九州進攻に絶好の口実を与えたのである。
天正一四年一〇月一日に吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)、同三日には毛利輝元(てるもと)の軍勢が、関門海峡から豊後への通路確保のために、先鋒隊として北部九州に進軍した。この時に、黒田孝高(よしたか)が軍勢の「検使」として、安国寺恵瓊(えけい)・宮木入道盛豊(もりとよ)とともに派遣された。同四日に田川郡香春岳(かわらだけ)城主高橋元種の端城になっていた小倉城を攻め、一一月七日には高橋氏配下の築城(ついき)郡宇留津(うるづ)城(椎田町)を落とした。さらに同一五日に京都(みやこ)郡障子ヶ岳(しょうじがたけ)城(勝山町)を攻略して、高橋氏の本拠香春岳城を包囲した。秀吉にとっては、「島津さへ討果候得ハ、諸事入らざる事」(極月朔日「豊臣秀吉書状」、『大日本古文書 小早川文書』一一)であったが、一二月一日頃高橋元種(もとたね)は降伏し、先鋒隊は諸所に陣を構えて、秀吉の出兵を待つことになった。
秀吉は翌天正一五年三月一日に大坂を出発し、二五日に赤間関(あかまがせき)(下関市)、二八日には小倉に上陸した。馬ケ岳城主の長野助盛(すけもり)や、築城郡城井谷の宇都宮鎮房(しげふさ)は豊臣秀吉に臣従し、宇都宮鎮房は嫡男の朝房(ともふさ)を薩摩進攻の一番隊に名前を連ねている(「豊臣秀吉朱印状」大阪市銀山寺蔵)。秀吉本隊には細川忠興(ただおき)・池田輝政(てるまさ)・前田利長(としなが)などが従い、総勢力は一〇万余に達し、秋月・南関・熊本から薩摩に向かった。豊臣秀長(ひでなが)を大将にした別軍勢には、黒田孝高・毛利輝元・宇喜多秀家(うきたひでいえ)らが従い、豊後から日向路を南下した。総勢は一五万という(「九州御動座記」)。