島津氏制圧に成功した豊臣秀吉は、天正一五年六月七日に筑前国箱崎に凱旋した。同地で一部九州諸大名の領地配分をしたのち、七月三日赤間関において、豊前国の大名配置を確定した。京都(みやこ)・仲津(なかつ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐(うさ)の六郡を黒田勘解由(かげゆ)孝高に与え、企救(きく)・田川(たがわ)の二郡は秀吉側近衆の一人で、香春岳城受取の役を果たした森壱岐守吉成(よしなり)(のち毛利勝信(かつのぶ))が拝領した。
黒田氏は宇多源氏の流れ、京極満信(きょうごくみつのぶ)の次男宗満(むねみつ)が、正安三年(一三〇一)に近江国伊香郡黒田邑(滋賀県)に居を構えて、黒田姓を名乗った。のち黒田氏は備前国邑久(おく)郡福岡(岡山県)に移り、一五五〇年代重隆(しげたか)のとき、播磨国飾東(しきとう)郡姫路に転居した。その子職隆(もとたか)は、御着(ごちゃく)城(姫路市)主小寺政職(まさのり)に属して姫路城を預かり、小寺姓を名乗った。孝高は職隆の子息で、織田信長・豊臣秀吉に仕えて、一時は小寺官兵衛(かんべえ)と名乗っていたが、天正年間には黒田姓に復した。豊前国六郡を拝領した黒田孝高は当初、築城郡八田の法念寺を仮の居所にし、子息長政は馬ケ岳城に入った。長野氏は黒田氏に属したが、城井谷に居を構える宇都宮鎮房は伊予国への所替えを不服として、毛利勝信領内の田川郡赤(あか)郷に身を寄せ、毛利氏仲介にて旧領回復の希望をつないでいた。
孝高は早速に、主人への背反、殺生・強盗、田地の隠匿を禁ずる制法を出して、領内鎮撫を図った。しかし同年中、佐々成政(さっさなりまさ)の拝領地肥後国において、成政の施策に反発した「国人一揆」が勃発し、黒田氏に不満を持つ野中鎮兼(しげかね)など宇都宮氏一族がこれに呼応した。宇都宮鎮房も旧居城井谷に戻り、黒田軍勢に対抗した。黒田氏は天正一六年初めまでには、下毛郡中津川沿いに城を築いて居を移し、宇都宮氏も人質を出して、一時は和解したかに見えたが、同年二月、鎮房は中津城にて長政に討たれた。孝高に随従していた鎮房の子息朝房(ともふさ)も、肥後で誅せられ、黒田氏領内の有力国人衆は一掃された(『新訂黒田家譜』第一巻)。
そのような動乱の最中でも、同一五年八月から九月にかけて、領内の検地を実施し、その成果をもとに翌一六年一一月には家臣への領地配分を行い、統治の体制を築いていった。孝高(如水(じょすい))は同一七年五月に、家督を長政に譲ったが、以後も秀吉の軍師として、縦横の活躍を見せた。