豊臣秀吉亡きあとの慶長五年(一六〇〇)九月一五日、徳川家康(いえやす)の率いる東軍と、秀吉側近であった石田三成(みつなり)の率いる西軍とが、美濃国関ケ原(岐阜県不破郡)において、覇権を争う「天下分け目」の合戦を繰り広げた。黒田氏は東軍に組して、長政が関ケ原に出陣した。留守を預かる如水は、豊後国旧領奪還を企てる大友義統(よしむね)軍を石垣原の合戦で破り、さらに毛利勝信の小倉城を攻撃した。
毛利勝信の出自について、詳細は不明であるが、もとは豊臣秀吉の側近黄母衣(きぼろ)衆の一人で、小倉城主とともに九州代官的な存在であった。黒田氏側はその毛利氏を、「米銭ヲ貯ヘ。蔵庫ニツミ置計ヲ業」(「豊後御陣聞書」)とする人物と評しているが、まさに代官的性格を言い当てている。
その毛利氏攻撃は、豊臣秀吉の軍師として活躍した如水が、豊臣氏と一線を画すことを表明したものである。黒田氏には一時、毛利氏領を宛がうという、徳川家康の内命が届いており、豊前国一円を掌中にしたことになる。しかし同年一一月には、豊前一国と豊後国国東(くにさき)郡および速見(はやみ)郡は細川忠興に宛がうこと、黒田氏には筑前国への移封が決定したのである。