慶長五年一二月二六日、細川忠興が丹後国宮津から中津城に入った。領地の評価である表高では、丹後国一二万石余から三〇万石への栄転であるが、長年京都や室町将軍近くに仕えた細川氏としては、九州への転封には複雑な思いがあった。故あって廃嫡になり、九州への同行が許されなかった忠興の長子忠隆(ただたか)は、細川氏筆頭家老の松井氏に当てた書状(松井家文書一六-一-二)の中で、「思ひの外遠国」と慰労している。この細川氏の転封については、徳川氏側近の中に忠興の気性を嫌う者がいたとの説がある(『綿考輯録』)。
忠興の実父藤孝(幽斎)(ふじたか(ゆうさい))は、天文三年(一五三四)に三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として京都の岡崎で生まれ、同八年に将軍足利義晴(あしかがよしはる)の命で細川元常(もとつね)の養子になった。藤孝は将軍義晴・義輝(よしてる)に仕え、義輝が松永久秀(ひさひで)と三好三人衆に討たれると、奈良一条院の門跡になっていた義輝の弟覚慶(義昭)(かくけい(よしあき))を還俗させ、織田信長(のぶなが)との提携を仲介して、将軍職に就任させた。のち義昭から離れて、織田・豊臣に接近し、丹後国に所領を構えた。忠興は永禄六年(一五六三)に、藤孝の長子として生まれたが、細川一族(奥州家)輝経(てるつね)の養子になった。しかし忠興は実父藤孝と行動をともにし、天正八年(一五八〇)八月宮津を居城にした。
忠興は、九州転封の噂が出た折には、「西国のはてに流され候ハヽ、豊前望ニ候」(『綿考輯録』)と述べている。それは、上方への通路の便を考えてのことであった。忠興が中津に入城した時には、先主の黒田氏が徴収した年貢を持ち去っており、細川氏は黒田氏に対して年貢の返還を要求した。この一件がしばらくの間、両氏不仲の原因になったという。入封の翌六年夏に領内を検地し、三九万九〇〇〇石の内検高を算出し、これに基づいて一〇月から家臣の領地配分を行った。
忠興入国当初は、小倉城は弟興元(おきもと)が預かった。しかし慶長六年末、兄忠興の家臣になることに不満を持った興元が出奔すると、忠興は小倉を本拠にすべく、同七年正月から大普請を始め、一一月には小倉城に移った。そして中津城には、次男で興元の養子になっていた興秋(おきあき)が残っていたが、慶長一〇年三月に幕府への人質として参府することを嫌って出家したため、三男忠利(ただとし)が預かることになった。
実は前年八月、忠興は大病を理由に早々と家督相続者を忠利と決め、幕府の了解を取り付けていたのである。そして速見郡木付城は松井康之(やすゆき)、豊後高田城を有吉立行が守備した。細川領内には他に、企敘郡門司城、田川郡香春岳城・岩石(がんじゃく)城、宇佐郡龍王(りゅうおう)城、下毛郡一戸(ひとつと)城があったが、元和元年(一六一五)の一国一城令によって、小倉・中津城以外の端城は破却された。
忠興(三斎(さんさい))は元和六年末に隠居して中津城に移り、忠利が二代藩主として小倉城に入った。忠興は隠居しながらも、中津奉行衆と呼ばれる重臣を抱え、隠居領四万石を統治し、院政的側面を有した。忠利は金山の開発や新銭の鋳造を行うなど、殖産興業や経済振興策を推進した。そして寛永九年(一六三二)一〇月、加藤忠広(ただひろ)改易の跡を受けて、忠利は肥後国熊本(表高五四万石)に転封し、忠興は八代城を隠居所にした。