小笠原氏の入国

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 細川氏が肥後国に転封した跡には、徳川譜代大名の小笠原氏一族が入封した。
 小笠原氏は、清和源氏(せいわげんじ)の加賀美遠光(かがみとおみつ)の次男長清が、甲斐国巨摩(こま)郡小笠原村(山梨県)に居を定めたことに始まる。小笠原氏は代々信濃国守護を務めており、南北朝時代、弓箭・騎馬の法にすぐれ、中興の祖と仰がれる貞宗(さだむね)は、信濃国筑摩(ちくま)郡井川に居館を定めた。長時(ながとき)(一五一四~八三)の時代には武田信玄に追われて、越後国や伊勢・陸奥国などに寓居したが、その子貞慶(さだよし)は旧領深志(ふかし)(のち松本と改称)を回復し、徳川家康・豊臣秀吉に追従した。貞慶の子秀政(ひでまさ)は、家康の長子岡崎信康(のぶやす)の息女福姫と婚姻し、以後譜代の大名として徳川氏との関係を密にした。
 元和元年(一六一五)の大坂夏の陣において、秀政と長子忠脩(ただなが)が天王寺口で戦死すると、次男忠政(ただまさ)(のち忠真(ただざね))が家督を相続し、同三年には播磨国明石一〇万石に転封した。忠脩の子長次(ながつぐ)は忠政の養子となり、同国竜野六万石を拝領した。そして寛永九年一二月、小笠原忠政は細川氏跡の小倉城に入り、豊前国の内、企救・田川・京都・仲津・築城郡と上毛郡の一部、一五万石を領地にした。また中津城(八万石)には長次、龍王(三万七〇〇〇石)に忠政の次弟重直(能見氏)、豊後国木付(四万石)には弟忠知が入った。細川氏の旧領を、小笠原氏一族が引き継いだことになる。
 ちなみに、忠政の妹千代姫が慶長一四年に細川忠利に嫁いでおり、細川氏は小笠原氏の入国を、「さてハ心安く存候」(寛永九年一〇月二日「細川忠興書状」、『細川家史料』四巻)と述べている。そして細川熊本三代藩主綱利(つなとし)が慶安三年(一六五〇)、わずか三歳で家督を相続したとき、しばらくの間は小笠原忠政(忠真)が後見役を務める間柄になった。
 小倉藩としては、細川氏時代の領域からは、表高で一五万石に縮小したが、小笠原氏は自らの九州での位置を、「九州御目付」と自負し、変事あれば即座に将軍へ上申すべしとの命を受けていたという(『小笠原正伝記』)。そして二代忠雄(ただお)は寛文一一年(一六七一)、新田高の内一万石分を弟の真方(さねかた)に分与した。真方の所領は、当初築城郡で二二カ村であったが、貞享二年(一六八五)に上毛郡二六カ村と交換された。居所は小倉城内の篠崎(しのざき)口付近であったことから、真方以後の小笠原氏のことを「篠崎侯」、あるいは「御屋敷様」などという。後の千束藩の祖である。
 なお真方は宝永六年(一七〇九)七月、江戸から帰国の途中小豆島の沖で暴風雨に遭遇し、御座船が転覆して客死した。遺骸は小倉城下の開善寺に運ばれて、葬儀が執り行われた。遭難地には犠牲者を祭る供養塔が建立されている。