細川氏が豊前入国翌年の慶長六年夏に、領内の検地を実施したことは前記した。各田畠は、土質の善悪によって、上々・上・中・下・下々の五段階の品位が付けられ、面積と品位との関係から、平均的収穫能力が算定(石盛(こくもり))された。そして、年貢や夫役などの諸負担は、各田畠の評価石高に応じて掛けられる。
小笠原氏は万治元年(一六五八)に、年貢以外の諸負担を課す基準として、右高とは別に、現実の年貢上納高を基準にして、四公六民の原則を加味した元高を逆算出した。土地台帳に登録された高を「本高」といい、諸役賦課基準の高を「四(よ)ツ高」という。
検地帳が、土地掌握を目的の第一義にしているのに対して、細川忠利は元和八年(一六二二)、領内の家数や住人・牛馬数を掌握するための調査を行った。これを一般には「人畜改め」といい、その帳簿は細川家に伝来し、『小倉藩人畜改帳』の題名で公刊されている。同帳簿によれば、当時の京都郡は、家数三〇三〇軒、人数五六七六人(男性二九九四人・女性二六八二人)、牛六三六疋、馬三四四疋である。そして仲津郡は、家数三六七一軒、人数七八〇九人(男性四二六五人・女性三五四四人)、牛七六七疋、馬二六五疋である。
寛文四年(一六六四)、幕府はキリシタン禁止・摘発のために、毎年宗門改めを実施するよう各藩に命じた。小笠原小倉藩では、島原合戦の戦利品として持ち帰った「キリシタンの像」を使って、城下町や各郡で毎年四月頃、「像踏」や「絵踏」を実施し、人名と宗旨・旦那寺を記録する「宗門改帳」を作成した。この帳簿が、住民登録台帳の性格を持つことになる。また宝永三年(一七〇六)に、田畠を水利毎に整理した土地台帳(水帳(みずちょう))を作成するが、土地政策としては細川氏の検地帳を踏襲したもののようである。