細川氏は豊前在国時代を通して、家臣には知行地を与えていた。小笠原氏も入国当初は知行地を与えたが、延宝六年(一六七八)に地方知行制を廃止し、知行取り家臣の田畠から徴収する年貢もすべて一旦は、藩庫に入れることにした。以後、知行取り家臣には形式的に知行宛行状(判物)だけが渡され、知行地(村)名を記した目録は発給されなかった。そのため、家臣による土地支配や農村統治はなくなり、町・村すべて藩の行政機構によって統治されることになる。
細川氏の時代にも、郡単位に統治責任者の奉行(郡奉行)が配置され、領主直轄地には代官(だいかん)が置かれた。農村統治のために、十数カ村を単位にする行政組織(手永(てなが))を作り、統括者を惣庄屋(そうじょうや)と称して知行地を与え、家臣団の末席に名前を連ねた。村の統括者を庄屋というが、家臣の知行地には別に「庄屋」を配して、知行地の管理に当たらせた例もある。しかし行政的責任は、村の庄屋が果たす。その下には「肝煎(きもいり)」と呼ばれる村役も設置されている。
小笠原氏も細川氏の手永制度を踏襲するが、惣庄屋は大庄屋と呼ばれるようになった。また島原合戦に大庄屋が出陣した際に、企救郡城野手永大庄屋の子息が留守を預かり、大庄屋の代役を果たしたことから、以後他手永においても大庄屋の補佐役として、「子供役」が置かれるようになった。子供役の給米が八石だったことから、子供役に「八石様」の異名がついたという(「小倉藩政時状記」、『福岡縣史資料』五)。
郡方行政職に、郡方三役・手永三役・村方三役といわれる各三職がある。郡方三役とは、先にあげた郡統治責任者の郡奉行(小笠原氏時代は筋奉行(すじぶぎょう)という)と代官、それに山林を監督する山奉行である。山林については、農民が植林・管理する「仕立山」であっても、伐採には山奉行の許可が必要である。前記したように、小笠原氏時代には実質的に家臣の地方知行制は廃止されたので、代官はすべての年貢収納事務に携わることになった。これら全郡の統括者として郡代(ぐんだい)がいる。
手永三役は大庄屋と子供役、それに筋奉行の下役として各手永に派遣される手代(てだい)をいう。子供役の名称の由来は前記した通りであるが、大庄屋との親子関係にこだわらず、独立した役職として選任されようになる。村方三役は、庄屋とこれを補佐する方頭(ほうがしら)、それに五人組頭をいう。方頭は、村によって人数が異なるが、複数の場合は担当地域が決められているようである。五人組は幕府が設置した組織で、農民相互扶助・監視を目的にし、それぞれに頭を置いて責任の所在を明確にしたものである。庄屋と方頭には給米が支給されるが、五人組頭には役職としての固定給はないようである。
方頭は庄屋の推薦によって大庄屋が決定、庄屋は大庄屋の推薦で筋奉行が決定、大庄屋と子供役は筋奉行の推薦によって郡代が決定した。そして大庄屋と子供役は、担当手永名を姓(長井礒七・平島雄太郎・国作(こくさく)武右衛門など)とし、功績を認められた場合には本姓の使用が許された。手永毎に庄屋会議、郡毎に大庄屋会議が定期的に開催され、藩からの触(ふれ)・伝達事項の確認や相互の調整・意思統一を図っている。