天災と農村の疲弊

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 治水や灌漑が不十分で、虫害の影響も受けやすい江戸時代に、小倉藩でも幾度か大きな天災に見舞われた。天災は、人命は勿論のこと、耕作被害による飢饉、ひいては年貢不足、農村の疲弊による社会不安は、為政者にとっても放置できない関心事であった。
 享保一七年(一七三二)夏、長雨に加えて虫害が夥しく、大麦は五割、小麦は二割の収穫しか得られず、秋作も二割の収穫しか望めないという、前代未聞の大飢饉に見舞われた。この飢饉が原因による犠牲者は、小倉藩領内で四万人余を数え、京都郡は六〇〇〇人、仲津郡は七七〇〇人余に達したという(「開善寺(かいぜんじ)過去帳」)。犠牲者を供養する石塔が各地に建立され、天保三年(一八三二)には開善寺において、藩主催による三日間の百年忌供養が催されている。
 文政一一年(一八二八)夏の二度にわたる大風による被害も、領内一円に多大な被害をもたらした(詳細は第三章第三節)。