農村の復興に向けて

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 虫害を防ぐ方法としては、松明に火を灯して虫を集める虫追いが一般的であったが、これでは早苗に害を及ぼす幼虫を駆除することができない。天保七年(一八三六)六月に藩は、「虫気」駆除のために各郡に鯨油を下付した。
 安政二年(一八五五)には、虫害駆除の方法を農民に周知させるために、日田出身の農学者大蔵永常(おおくらながつね)が編纂した『除蝗録(じょこうろく)』を各大庄屋に配布した。当地方の大庄屋は自費で『除蝗録』を購入し、配下の各村庄屋に配布し、周知の徹底を図っている。田地への鯨油注入と、松明による虫追いという、両方法による虫害駆除によって、耕作被害に対処することになる。
 年貢や夫役などの諸負担は個々の農民が処理するものであるが、総額は村単位の責任となり、不足分は村人全員で補填するか、庄屋の責任になることもある。すなわち村請制度である。しかし逃散人(ちょうさんにん)や潰(つぶれ)百姓の出現は、農村の疲弊と社会不安、ひいては年貢収入の減少にもつながることから、藩は耕作者のいない無主田畠仕起しのために新規百姓の投入を行っている。特に文政期以降、当面の生活費(仕据(しずえ)料)を貸与しての新百姓取立や、地域によっては穢多(えた)を投入しての荒地復興も行われている。穢多身分の者に、「新百姓」の名義を付けることの是非が取沙汰されたのも、この時期である(「小倉藩被差別部落の構造」『部落解放史ふくおか』二〇・二一合併号)。
 しかし耕作は安定せず、特に天保七年(一八三六)の凶作は深刻だったようで、郡代が直接に田地作毛検分のために出張したが、それでも年貢率はなかなか決定しなかった。農民の減免要求と藩財政逼迫の狭間に置かれて、築城郡筋奉行の延塚(のぶづか)卯右衛門が切腹する事件が発生するほどであった。そして弘化四年(一八四七)には、年貢米を上納できずに潰れた百姓の数は、仲津郡で六五七軒を数えている(「国作手永大庄屋日記」)。
 領民の生活維持と社会の平安、そして年貢収入の安定確保は、藩の一大関心事であった。文政期以降藩は、新たな収入源として、国産作物の栽培奨励と、領外販売の掌握を目的にした国産会所を設置し、城下町商人に限らず、生産地である在郷の有力商人を登用した。特に天保期には、京都郡行事村の飴屋と新屋、仲津郡大橋村の柏屋が、物資の集荷と藩札両替資金調達などで活躍した。