藩政の動揺

250 ~ 251 / 898ページ
 嘉永七年(安政元・一八五四)に藩の「御勝手方掛り引受」家老に就任した島村志津摩(しづま)は、採炭・製塩・製紙・養蚕などの殖産興業策を推進するが、「上下御為」になることは上申させ、民意反映の姿勢も見せた。また河野四郎を郡代(ぐんだい)に登用して、大庄屋・庄屋など郡方行政職の綱紀粛正を行った。それは、各郡二名の大庄屋を「調子方役」とし、家老屋敷において手永・村の収支帳簿を検査するもので、不正発覚の村役人は更迭されるという徹底したものであった。
 この時期、幕府においては日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が締結され、開国の機運が高まっていたが、他方では「治外法権(ちがいほうけん)」・「関税自主権(かんぜいじしゅけん)」などの不平等に反対する攘夷派の活動も活発になっていた。万延元年(一八六〇)、水戸藩士らによる大老井伊直弼(いいなおすけ)暗殺(桜田門外の変)、文久二年(一八六二)、公武合体派の老中安藤信正(のぶまさ)襲撃(坂下門外の変)、同年、薩摩藩士によるイギリス人殺害(生麦事件)など、世情不安は幕藩体制を根源から揺らしていた。
 関門海峡を通過する異国蒸気船の数も増し、万延元年一二月晦日、小倉藩領企救郡楠原(北九州市門司区)にイギリス人七名が上陸し、翌年五月には小倉城下にも姿を見せた。幕府が諸藩に海岸防備と武備充実を指示すると、小倉藩でも文久三年(一八六三)、長浜から大里までの浜辺に「人家を囲う」ための松を植林し、海岸警備のための「農兵」を徴発した。さらに、城下町紫川河口や葛葉(門司区)に大砲台場を建設するなど、有事への備えを強化した(『中村平左衛門日記』)。
 そのような最中の五月一〇日、攘夷急進派が主導する長州藩が、関門海峡を通過するアメリカ商船ペンプローグ号に大砲を撃ちかけ、さらにフランス軍艦キェンシャン号にも砲撃を加えるという事件が勃発した。長州藩は小倉藩にも外国船砲撃を迫ったが、小倉藩は幕府の意向をうかがうべく、同調しなかった。
 元治元年(一八六四)七月の京都蛤御門(はまぐりごもん)の変に敗れ、四国連合艦隊の砲撃にさらされた長州藩は、攘夷一辺倒の政策から、軍備洋式化による倒幕へと大きく方向を転換した。こうした長州藩の動向に対して、小倉藩は態度を明確にしないまま、やがて幕府の長州征討戦にまきこまれることになった。