元治元年、蛤御門の変を契機に小倉藩では、長州藩の農民・町人にいたるまで領内立ち入りを禁止する、厳しい旅人取締りを行った。九月には、熊本・中津・唐津藩などの軍勢が小倉城下町と近郊に宿陣して、長州征討に備えた。この時は長州藩が、益田・福原・国司(くにし)ら右事変責任者家老の切腹で、恭順の姿勢を見せたことから、征討は中止された。しかし藩主毛利敬親(たかちか)父子の蟄居(ちっきょ)と、領地一〇万石削減の決定には従わず、むしろ薩摩藩と王政復古の盟約を交わして、対決姿勢を顕にした。
幕府は慶応二年(一八六六)五月二九日を処分に対する回答期限にしたが、長州藩は応じず、第二次長州征討に踏みきった。六月三日に、小倉口の総督として老中小笠原長行(ながみち)が沓尾(くつお)浦から開善寺に着陣し、幕府千人隊も相次いで沓尾浦や宇島(うのしま)経由で小倉に到着した。そして小倉口の合戦は、六月一七日未明、長州軍艦の田野浦・門司砲撃で火ぶたが切られた。小倉藩は六備二小隊を編成し、熊本藩兵とともに一進一退の状況で、七月二七日の赤坂・鳥越(とりごえ)での合戦は最も熾烈をきわめた。
そのような最中、七月二〇日に将軍徳川家茂(いえもち)が死去しており、同二九日夜半には総督小笠原長行が、急遽軍艦富士山丸で小倉を脱出するに及び、熊本藩も兵を引き上げ、小倉藩は全く孤立の状態に置かれてしまった。形勢不利を悟った小倉藩は八月一日、自ら城に火を放ち、田川郡香春に藩庁を移して、体制の立て直しを図った。