維新への道のり

251 ~ 251 / 898ページ
 小倉藩は、田川郡と企救郡との境にある金辺(きべ)峠や京都・企救郡境の狸山(たぬきやま)峠などで、侵攻する長州軍と激戦を繰り広げながら、小倉城下奪還を目指した。しかし単独の交戦ではいかんともしがたく、一二月二八日、幼君忠忱(ただのぶ)の名代として分家篠崎(しのざき)侯の小笠原近江守貞正(さだまさ)が長州藩と講和条約を取り交わした。その結果小倉藩は、城下町と企救郡を長州藩の占領下に置いたまま、明治維新を迎えることになった。