天正六年(一五七八)一一月、九州六カ国を支配し、九州で最大の勢力を誇っていた豊後の大友宗麟が日向国耳川の戦いで島津氏に大敗すると、大友氏の領国では大友氏に反旗を翻す国人たちが続出した。
豊後では翌天正七年から八年にかけて大友氏の一族である田原親宏・親貫父子が反乱を起こし、天正八年閏三月には直入郡熊牟礼城の田北紹鉄(しょうてつ)が背いて討伐された。
豊前では天正七年正月に下毛郡長岩城(大分県下毛郡耶馬溪町)の野仲鎮兼(しげかね)が離反し、小倉を押える高橋鑑種(あきたね)・元種や京都郡馬ヶ岳城の長野助盛らも大友氏に反旗を翻して、大橋・蓑島周辺で大友軍と戦った。
筑前では秋月種実が、肥前の龍造寺隆信に呼応して、宗像・筑紫・原田氏などとともに反乱を起こし、島津氏とも連絡をとりながら反大友の軍事行動を展開した。
龍造寺隆信は肥前から筑前に攻め入り、さらに筑後・肥後にも進出した。天正七年三月には筑後三池城の三池鎮実を攻め落とし、鍋島直茂を肥後に出撃させて小代城主小代親伝を攻略した。四月には筑後山下城の蒲池鑑広(あきひろ)を攻め、七月には生駒野城主河崎鎮堯を攻め落とした。