一方、南九州を制圧した島津氏は、東は日向から、西は肥後から北上を開始した。天正八年(一五八〇)三月には肥後熊本の城親賢が大友氏に背いて島津氏に通じ、天正九年九月には八代・芦北・球磨の三郡を支配する相良氏が降伏した。
筑後から肥後に進出した龍造寺隆信は、島津氏が支配する天草に押し入って人質を取り、熊本からも人質を取ったことから島津氏と対立するようになった。天正一二年三月、島津氏は肥前島原で龍造寺氏に抵抗を続ける有馬氏へ援軍を送り、同月二四日には島津・有馬連合軍が龍造寺軍と戦って大勝し、隆信を討ち取った。こうして島津氏の勢力は九州中部から北部に進出することになった。
天正一三年八月に四国を平定した豊臣秀吉は、同年一〇月、大友宗麟と島津義久に対し、九州における領土紛争は追って秀吉が解決するので、まず戦いを止めるようにと「叡慮」による停戦を命じ、拒否すれば討伐すると伝えた。
大友氏はこれを受け入れたが、島津氏はこれを無視して大友氏への軍事行動を継続した。筑後から筑前に攻め入った島津軍は、七月二七日に高橋紹運の立て籠もる岩屋城を落城させ、八月には宝満城も攻略した。しかし、この攻撃によって島津軍は大きな被害を受け、高橋紹運の子統虎(立花宗茂)の守る立花城は包囲はしたものの落とすことができず、逆に高取居城を攻め落とされた。