島津氏討伐を決意した秀吉は、天正一四年(一五八六)七月、黒田孝高を軍奉行に任じ、三〇〇〇の兵を率いて九州に向かわせた。孝高は途中で中国の毛利輝元と会い、吉川元春・小早川隆景と九州出陣の軍略を相談し、八月には九州に到着した。一〇月には毛利輝元も九州に渡り、本格的な軍事作戦が開始された。孝高は豊前諸士の帰順を促したので、馬ヶ岳城の長野助盛、宇佐郡広津城の広津治部少輔、時枝城の時枝武蔵守らが人質を出して降った。
一〇月四日、孝高は香春岳城主高橋元種の端城小倉城を攻め落とした。一一月には築城郡の賀来氏の居城宇留津城(椎田町)を落とし、さらに京都郡の障子ヶ岳城(勝山町)を陥落させた。一二月には田川郡の香春岳城(香春町)を落とした。
一方、仙石秀久は長宗我部元親らを率いて四国を発し、八月二八日に豊後沖ノ浜(大分市)に着岸して府内に入った。久秀は一〇月には豊前に出陣し、宗麟の子大友義統も一〇月三日に豊前の反乱軍鎮定のため宇佐郡に着陣、秀久とともに郡の過半を平定した。
これをうけて、島津軍は日向口・肥後口の二カ所から豊後への侵入を開始した。一二月五日、島津家久軍は鶴ヶ城(大分市)に押し寄せ、一二日には義統・秀久・長曽我部軍を打ち破り、敗走する大友軍を追撃した。府中に敗走した義統は、上野館より高崎城に入り、さらに宇佐郡に退いた。