天正一五年(一五八七)一月一日、秀吉は九州出馬に当たっての諸将の出発日と軍役を定めた。二月八日には出馬の時期を孝高に伝え、宇喜多秀家らの着陣を持って豊後に進軍するように命じた。
秀吉の弟豊臣秀長は二月一〇日に大和を発して九州に向かった。秀吉は三月一日に二万五〇〇〇の兵を率いて大坂を出発した。同月二五日、赤間関(下関)に入った秀吉は、秀長と軍議を行い、秀長は豊前・豊後・日向を経て薩摩に、自身は筑前・筑後・肥後経由で薩摩に入ることを決め、諸将の部署を定めた。
三月二八日、秀吉は豊前小倉城に入った。討伐軍はここから二手に分かれ、羽柴秀長軍一五万は日向路を、秀吉軍一〇万は筑前から肥後路を進んだ。
翌二九日、秀吉は馬ヶ岳城に入った。四月朔日、秀吉は自ら五万の兵を率いて板原に出陣し、蒲生氏郷・前田利長に命じて古処山城(甘木市)の秋月種実の端城岩石城(添田町)を攻めた。戦いは朔日の早朝から始まり、氏郷は本道通り、利長は城の尾根筋から攻め上った。岩石城は要害であったが、秀吉軍の猛攻の前に一日で落城した。
翌二日、秀吉は安永峠(大任町)から田原(川崎町)へ出、猪膝(田川市)から筑前大隈城(嘉穂町)に入った。ここで秀吉は剃髪して来降した秋月種実父子の降伏を許した。
四月一〇日、秀吉は筑後高良山に陣を進め、一六日には肥後隈本城に入り、さらに二七日には肥後水俣を発して薩摩出水に入った。
一方、毛利・黒田両氏や宇喜多秀家らを加えた一五万の秀長軍は豊後から日向路を南下し、四月六日には耳川を渡って、高城・財部(高鍋)間に陣を敷いた。これを迎え撃つ島津軍は都於郡(宮崎県西都市)に陣を構えた。
戦いは高城の攻防から始まった。攻撃には大友・毛利・小早川・宇喜多勢が当たり、宮部・黒田らは根白坂(宮崎県木城町)に陣を構えて島津軍の来攻に備えた。四月一七日、島津軍は根白坂を攻めたが、多数の戦死者を出して退却を余儀なくされた。
四月二一日、秀吉勢が薩摩川内に進軍したとの情報を得た島津義久は、都於郡に諸将を集めて善後策を協議し、和睦の使者木食興山上人らの斡旋を受け入れて降伏の意を伝えた。
義久らの降伏の報は、五月三日に薩摩川内(鹿児島県川内市)の泰平寺に入った秀吉のもとに届けられた。義久は髪を落として龍伯と号し、五月八日泰平寺に秀吉をたずねて罪を謝して正式に降伏した。