九州の平定を完了した秀吉は、五月一八日に泰平寺を発ち、六月六日には筑前大宰府に着き、翌七日筥崎宮に入った。
秀吉は、しばらくここに留まり九州諸大名の配置を定めた。九州の国分けは、討伐の対象となった島津氏が薩摩・大隅二国と日向国諸県郡を安堵されたほか、大友氏が豊後、龍造寺氏が東部肥前と、それぞれその本領が安堵された。島津・大友・龍造寺三勢力の緩衝地帯であった肥後は新たに佐々成政に与えられた。また対馬の宗氏、日向の伊藤氏も、肥前の大村・有馬・松浦・波多などの諸氏とともに旧領を認められた。
現在の福岡県地方は、筑前一国が、筑後生葉・竹野二郡および肥前基肄・養父二郡とともに小早川隆景に与えられ、筑後は、山本・御井・上妻・三瀦の四郡が小早川秀包(ひでかね)に、山門・三瀦・下妻の三郡が立花宗茂に、三池郡が高橋直次に、上妻郡が筑紫広門に与えられた。豊前は、京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐の六郡が黒田孝高に、企救・田川二郡が森吉成(毛利勝信)に与えられた。
一方、それまでこの地方を支配していた豊前香春岳の高橋氏や筑前古処山の秋月氏は、本領から遠く離れた日向の縣や財部に移され、豊前京都郡の長野氏や筑前怡土郡の原田氏、遠賀郡の麻生氏、宗像郡の宗像氏は筑後に移されて、筑後の問注所氏とともに小早川隆景の与力とされた。また、筑後の三池氏は立花宗茂の与力に、蒲池氏は高橋直次に付けられた。