黒田氏は、系図によれば近江佐々木氏の一族で、鎌倉時代末期に近江国伊香郡黒田村に住んだことから黒田氏を称し、孝高の曾祖父高政のときに備前国邑久郡福岡に移り住んだといわれる。しかし年数にくらべて代数が少なく、黒田氏が幕府に提出した系図には、「高宗から重隆までその間中絶」と記されている。
黒田氏の歴史がはっきりしてくるのは、孝高の祖父の重隆のときからで、重隆のときに備前から播磨に移ったといわれている。黒田家の先祖について記した「夢幻物語」には、この頃重隆は家伝の目薬を売って産をなし、それをもとに近隣の農民に金を貸し付け、田地を買い集めるとともに名子・被官などの家頼を集めて勢力を広げていったと記されている。
孝高の父の職高は、播磨国の守護赤松氏の一族で御着(兵庫県姫路市)の城主であった小寺政職の家臣となり、小寺の姓を与えられて姫路城を預かった。
孝高は、天文一六年(一五四七)職高の長男として生まれた。織田信長の勢力が中国地方に及ぶと、政職に勧めて信長に通じ、自ら信長のもとへ使いした。天正五年(一五七七)に豊臣秀吉が中国攻略のため播磨に入ると、すすんで姫路城に迎え入れ、佐用・上月攻めに従った。
天正六年に摂津の荒木村重が信長に背くと、説得のため有岡城に赴いたが、逆に捕えられ、翌七年一一月の有岡城落城の際に救出された。孝高は約一年間も狭い牢獄に閉じこめられていたため足を悪くしたという。このころ姓をもとの黒田に復している。天正八年九月には秀吉から播磨国揖東郡のうちに一万石を与えられた。
天正一〇年六月に信長が本能寺の変で没した時、孝高は秀吉に従い備中高松城で毛利氏と戦っていたが、信長横死の報に接した孝高は、毛利氏との和睦交渉やその善後処理に奔走し、秀吉に天下取りを囁いたといわれる。
天正一二年三月には秀吉に命じられて蜂須賀正勝とともに検使として備中に赴き、宇喜多・毛利領の境界裁定にあたった。同年七月播磨国宍粟(しそう)郡を与えられた。天正一三年には蜂須賀正勝とともに検使として四国攻略に参加し、戦後伊予において知行の配分にあたった。
天正一四年(一五八六)には九州討伐軍の軍奉行として先手を命じられ、毛利氏の軍とともに秀吉に先立って九州に入った。翌天正一五年に秀吉が九州に入ると、羽柴秀長に従って豊後・日向方面を攻め、戦後の国分けによって豊前北部の六郡を与えられた。