今度御恩地として豊前国にお
いて京都・築城・中津・上
毛・下毛・宇佐六郡の事、宛
行われ訖(おわん)ぬ。但し宇佐郡内妙
見・龍王両城当知行分これを
相除く。其の外全く領知せし
め、弥奉公忠勤を抽(ぬき)んずべき
の由候なり。
天正十五
七月三日 (朱印)
黒田勘解由とのへ
いて京都・築城・中津・上
毛・下毛・宇佐六郡の事、宛
行われ訖(おわん)ぬ。但し宇佐郡内妙
見・龍王両城当知行分これを
相除く。其の外全く領知せし
め、弥奉公忠勤を抽(ぬき)んずべき
の由候なり。
天正十五
七月三日 (朱印)
黒田勘解由とのへ
このように、黒田孝高の所領は豊前国の京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐の六郡であったが、宇佐郡のうち妙見城と龍王城は大友氏の領するところとなっていた。妙見城は大内氏時代から豊前支配のための重要な位置を占め、歴代大内氏の代将が置かれていた。大内氏滅亡後は、大友氏の縁戚の田原親賢が城督となり、豊前支配の最高責任者としてその任務を遂行していた。また龍王城は、宇佐大宮司家の庶流である安心院(あじむ)氏の居城で、両城とも豊後国境に接する要衝であった。同月二七日、秀吉は孝高に対し、妙見・龍王両城当知行分四八九町三段を検地の上大友義統(よしむね)に引き渡すよう命じている(『黒田家文書』第一巻)。
黒田孝高に豊前国六郡を与える知行宛行状が発給されたのと同じ七月三日、秀吉は時枝武蔵守鎮継に対し「検地之上を以」て一〇〇〇石を与え、孝高の与力とすることを達している(北九州市立自然史・歴史博物館所蔵「豊臣秀吉朱印状」)。時枝武蔵守は宇佐郡の国人領主で、孝高が秀吉に先立って九州に入った際、いちはやく人質を差し出して孝高に従った。
また、宝珠山氏にも次のように、「検地之上を以」て三〇〇石を与え、孝高の与力とすることを達している(福岡市博物館所蔵宝珠山・原家文書「豊臣秀吉朱印状」)。
今度御恩地として豊前国におい
て京都・築城・上毛・下毛・中
津・宇佐六郡において、検地の
上をもって参百石の事宛行われ
畢(おわん)ぬ。全く領知せしめ、黒田
勘解由与力致し、自今以後忠勤
を抽んずべきの由候なり。
天正十五
七月三日 (朱印)
宝珠山
て京都・築城・上毛・下毛・中
津・宇佐六郡において、検地の
上をもって参百石の事宛行われ
畢(おわん)ぬ。全く領知せしめ、黒田
勘解由与力致し、自今以後忠勤
を抽んずべきの由候なり。
天正十五
七月三日 (朱印)
宝珠山
宝珠山氏は筑前国上座郡宝珠山を本拠とする国人領主で、高橋元種に属して香春岳城で孝高と戦い、香春岳落城後孝高に仕えたという。
翌天正一六年と思われる二月七日には、孝高の家老の久野四兵衛尉と栗山四郎右衛門尉が、次のように吉田六介と久野五兵衛に対し、現在の行橋市内の稲戸(稲童)村と松原村を宝珠山右衛門大夫の知行地として渡すように指示している(福岡市博物館所蔵宝珠山・原家文書「久野四兵衛尉・栗山四郎右衛門尉連署状」)。
以上
稲戸村・松原村の儀、宝珠山右衛
門大夫殿知行有るべきの旨、仰せ
出され候、異議なく相渡さるべく
候、恐々謹言
久野四兵衛尉
二月七日 (花押)
栗山四郎右衛門尉
(花押)
吉田六助殿
久野五兵衛殿
御宿所
稲戸村・松原村の儀、宝珠山右衛
門大夫殿知行有るべきの旨、仰せ
出され候、異議なく相渡さるべく
候、恐々謹言
久野四兵衛尉
二月七日 (花押)
栗山四郎右衛門尉
(花押)
吉田六助殿
久野五兵衛殿
御宿所
宝珠山右衛門大夫が誰なのか史料からは確定できないが、「宝珠山氏(原姓)系譜」(『宝珠山村誌資料』)によれば、宝珠山左近将監隆倍(たかます)が、天正一五年に秀吉の命によって豊前中津の黒田孝高に仕え、稲戸(稲童)村・松原村に三〇〇石の知行地を受けたとあることから、隆倍のことと思われる。
系譜によれば、隆倍は天正二一年二月二八日に亡くなり、墓は仲津郡稲戸(稲童)村にあるという。隆倍の子の宝珠山左近大夫種良はのちに姓を原と改めて原弥左衛門と称したが、この原弥左衛門は黒田二四騎のひとりとしてよく知られる人物である。
豊前に入国した孝高は、下毛郡の時枝城において次のような三カ条の法令を出している(『新訂黒田家譜』第一巻)。
一、 | 主人親夫に背く者、罪科に行うべき事 |
一、 | 人を殺し或いは盗人・強盗をなし、又其の企て仕る者あらば、罪科に行うべき事 |
一、 | 隠田(おんでん)畝ちがえ等仕る者、同前の事 |
右の品々これあらば、たとひ親類又は同類たりといふとも、ひそかに申し出べし、其の儀実たらば、人知らざる様に一かどほうびこれを遣すべき事 | |
天正十五年七月日 |
第一条は主君への忠誠、親への孝行、夫への貞節を求めたもの、第二条は殺人や盗犯などを禁じたもの、第三条は田地の隠匿、耕作面積の詐称などを禁止したもので、これらに違反したものは処罰するとしており、領内統治の基本方針を示したものである。
また、孝高は豊前に入国した直後から検地を実施した。豊前国宇佐郡下麻生の禅源寺の「年代記」には「七月より黒田殿領シ、検地ス」と記されており、宇佐郡高家村の検地帳には「天正十五年八月吉日」、同郡元重村の検地帳写には「天正十五年九月二十七日」と記されていて、七月から九月にかけて検地が実施されたものと思われる。
元重村の検地帳は、耕地一筆ごとに、その字名・面積・斗代・名請人が記載され、ほぼ一六筆ごとに斗代の合計が記されている。また、斗代は、田は反当たり平均六斗、畑は四斗七升八合、屋敷地は七斗七升と、非常に低く、生産高ではなく年貢高を把握したものと考えられる。
この検地は、時期からみて次に述べる国人一揆との戦いと並行して実施されたものであり、国人層の意向を無視することができず、本格的な土地丈量による検地ではなく指出検地として実施されたため、旧来の土地所有-保有の慣行を維持した形で収取高を把握するに留まったものと思われる。