豊前一揆

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 天正一五年(一五八七)七月、九州平定後の国分けによって新たに肥後国を与えられた佐々成政は、国人層に知行地を与えずに検地を強行したため、肥後一国にわたる大一揆を引き起こした。この国人一揆の鎮圧には、秀吉の命を受けた九州の諸大名が出陣したが、この隙をついて肥前や豊前でも一揆が勃発した。
 豊前では、七月に上毛郡を中心にして山田・仲間・如法寺らが一揆を起こし、黒田方の広津鎮種の居城が攻撃された。その後、各地で小競り合いが行われたが、一〇月に入ると大規模な一揆が発生した。
 一〇月朔日、豊前の国人が兵を起こして城に立て籠もったとの報を受けた長政は、筑後にいた父の孝高にこれを知らせるとともに、直ちに馬ヶ岳城から兵を発し、上毛郡の日隈(姫隈)・高家(高田)両城を攻略した。
 一方、肥後の国人一揆鎮圧のため小早川隆景とともに筑後久留米に滞在していた孝高は、長政からの知らせをうけると、急遽豊前へ引き返した。
 築城郡城井谷の城井(宇都宮)鎮房(しげふさ)は、九州の国分けに際し、四国の伊予今治への転封を命じられたが、城井谷は先祖信房が源頼朝に拝領して以来の領地なので、今までと同じところに所領を賜りたいと訴えたため、秀吉の怒りをかって今治の所領も没収された。一時は毛利勝信(森吉成)を頼って田川郡赤郷に身を寄せていたが、黒田氏の家臣大村助右衛門が属する城井谷城を奪ってここに立て籠もり、黒田氏に反抗したのである。
 一〇月九日、長政は二〇〇〇の兵を率いて城井を攻めたが、攻め落とせずに撃退された。その後、城井谷の咽喉にあたる神楽山の古城を修築して遠巻きの作戦でこれを封鎖した。また、上毛・下毛・宇佐の三郡においても野仲・犬丸・賀来・福島氏などの国人が蜂起し、それぞれの居城に立て籠もった。
 秀吉は毛利輝元・小早川隆景・吉川広家らに支援を命じた。その支援のもとに黒田長政は、山田大膳・八屋刑部の居城を陥落させ、野仲鎮兼の長岩・雁股の両城を攻略した。一二月には、犬丸越中守の犬丸城を攻撃して陥落させ、加来統直・福島佐渡守の二城を攻囲して、一二月末までに陥落させた。
 城井鎮房も、城井谷城を封鎖され、豊前国一揆勢の中で孤立した状況の中で一二月二四日に吉川広家の勧めに従い人質を差し出して降伏した。
 『黒田家譜』によれば翌天正一六年四月、鎮房は案内もなく突然二〇〇ばかりの手勢を連れて、長政へ一礼のためと称し中津城を訪れた。長政は、これを無礼であるとして城内での酒宴の最中に殺害し、軍勢を城井谷城に派遣して、鎮房の居館を焼き、鎮房の父長甫を捕らえ、一族一三人を磔にした。さらに孝高とともに肥後にあった鎮房の子朝房も、加藤清正の家臣に襲撃されて殺害され、城井氏は滅亡した。