中津城は、河口に築かれた平城で、前後に川を帯びるとともに惣堀が海につづき、城門には板橋をかけて往来の道とし、大船の出入りにも便利であった。
孝高が長政に与えた居城普請の次第には、一番に材木出し、二番に石垣、三番に倉立、四番に殿主(天守)の台つき、五番に小丸の堀向かいつけ、六番に惣堀、七番に口々のことが列挙されている。孝高は普請中、中津の京町中の辻西側に住む商人伊予屋弥右衛門宅に宿泊して自ら工事を監督したといわれている(金子堅太郎『黒田如水伝』)。
天正一五年(一五八七)、孝高は施政の三大方針を定め、経費の節倹、賦役および年貢の軽減、寛大な制令などを発布した。また、これまで栗山四郎右衛門尉利安一人であった家老を、久野四郎兵衛尉重勝・井上九郎右衛門尉之房の二人を加えて三人とし、国政を総理させた(金子堅太郎『黒田如水伝』)。
天正一六年一一月には、次のように一一月五日付で黒田長政が知行宛行状を発給し、家臣に対して知行を給与している(『黒田家文書』第二巻)。
豊前国築城郡宇留津村并に上毛郡
土屋垣村、都合六百石宛行い候、
末代知行すべきもの也、仍って件
の如し。
天正十六
十一月五日 長政(花押)
野口藤九郎殿
土屋垣村、都合六百石宛行い候、
末代知行すべきもの也、仍って件
の如し。
天正十六
十一月五日 長政(花押)
野口藤九郎殿
検地は天正一五年の豊前入国直後に実施されていたが、八月には肥後で勃発した国人一揆鎮圧のため孝高は出陣し、一〇月には豊前国内において城井鎮房などの国人が蜂起したことから、家臣に対する知行地の配分が遅れたものと思われる。
知行の宛行が孝高でなく長政によって行われているのは、このとき孝高が広島に滞在中であったため、長政が孝高の命を受けて行ったのであろうといわれているが(金子堅太郎『黒田如水』)、孝高はこれ以前から隠居の意思を固めて秀吉に願い出ており、あるいはこの時点ですでに実質的に家督の相続が行われていたのかもしれない。
知行地の村付けは、次のように約一カ月後の一二月三日に、家老の井上九郎右衛門尉・久野四兵衛尉・栗山四郎右衛門尉の三名の連名で行われている(『黒田家文書』第二巻)。
知行分村付之事
築城郡之内
一、五百弐拾参石壱斗弐升六合 宇留津村
百拾七石六斗四升 土屋垣村
并六百四拾石七斗六升七合内
残四拾石七斗六升七合 御代官
以上
井上九郎右衛門尉
天正拾六年十二月三日 □□(花押)
久野四兵衛尉
□□(花押)
栗山四郎右衛門尉
野口藤九郎殿 利安(花押)
築城郡之内
一、五百弐拾参石壱斗弐升六合 宇留津村
百拾七石六斗四升 土屋垣村
并六百四拾石七斗六升七合内
残四拾石七斗六升七合 御代官
以上
井上九郎右衛門尉
天正拾六年十二月三日 □□(花押)
久野四兵衛尉
□□(花押)
栗山四郎右衛門尉
野口藤九郎殿 利安(花押)
この野口藤九郎宛の村付けは、宇留津村で五二三石余、土屋垣村で一一七石余、合計六四〇石余となっているが、このうち知行として与えられたのは六〇〇石で、超過分の四〇石余は「御代官」とあるように、黒田氏の蔵入地で野口藤九郎が代官として支配を任されていた。
なお野口藤九郎は、二年後の天正一八年正月に土屋垣村において三六石を加増されている(『黒田家文書』第二巻)。野口藤九郎はのちに名を左介と改めるが、黒田二四騎のひとりとしてよく知られる人物である。