長政の家督相続

264 ~ 265 / 898ページ
 孝高は天正一六年(一五八八)には所領を子供の長政に譲って隠居したいと秀吉に申し出ていたが、まだ五〇歳にも達していないとしてなかなか許されなかった。翌天正一七年にようやく所領を譲ることは認められたが、隠居の件は認められず、その後も秀吉に仕えることになった。
 長政は、永禄一一年(一五六八)に孝高の長男として播磨国姫路に生まれた。天正五年(一五七七)孝高が織田信長に属したため、人質として信長のもとに赴き、秀吉に預けられて近江国長浜に住んだ。翌六年、孝高が摂津有岡城の荒木村重に幽閉されたため、謀反の嫌疑を受け、信長の命によって殺害されそうになったが、竹中重治の機転により匿われた。
 天正一〇年、秀吉の中国攻略にはじめて従軍し、翌一一年には賤ヶ岳の戦いに参加して、河内国丹北郡に四五〇石を与えられた。天正一二年の小牧・長久手の戦いのときは和泉国岸和田城を守って根来・雑賀一揆を撃退し、二〇〇〇石を加増された。九州平定にあたっては父孝高とともに羽柴秀長に従って豊後・日向方面を攻めた。
 天正一八年三月一九日、秀吉は関東の北条氏を討伐するため京都を出発した。長政は豊前に在城したが、孝高は秀吉に従って東下し、六月には小田原城に乗り込み、北条氏政・氏直父子に対面して和睦をすすめた。孝高の仲介によって降伏を認められた氏直は、その謝礼として孝高に北条氏秘蔵の「吾妻鏡」と日光一文字(鎌倉時代の太刀)、法螺貝「北条白貝」を贈った。
 小田原平定後、孝高は八月に中津に帰国し、九月には上洛して猪熊邸に入った。九月二四日、孝高は豊臣秀次から尾張国中島郡において三〇〇〇石を与えられている(『黒田家文書』第一巻)。
 
写真8 黒田長政画像
写真8 黒田長政画像
(福岡市博物館所蔵)