秀吉が大陸征服を構想したのは、天正一三年(一五八五)七月に関白に就任した直後のことであり、薩摩に在陣していた天正一五年五月には対馬の宗義調に命じて朝鮮との外交交渉にあたらせている。九州平定後に実施された博多の復興や九州諸大名の国割も、大陸出兵のための兵站基地を確保し、そのための体制を整えることを目的としていた。
天正一八年(一五九〇)に全国の統一を達成した秀吉は、翌天正一九年に入ると大陸出兵のための具体的な準備を開始し、同年一〇月には本営を置くため九州の諸大名に命じて肥前の名護屋に城を築かせた。名護屋城の築城は、浅野長政が総奉行をつとめ、黒田孝高が縄張りを担当した。
天正二〇年(一五九二)一月には大陸派遣軍の部署を定め、三月には派遣軍の部署を変更して、九州を中心とする三二の大名、一五万八七〇〇人の兵を九軍に分けて上陸軍を編成し、四月には大陸への侵攻を命じた。黒田長政は大友義統とともに第三軍に編成され、五〇〇〇人の軍役を負担していた。四月一二日、小西行長・宗義智らの第一軍は釜山に上陸し、朝鮮への侵攻が開始された。黒田長政ら第三軍は毛利勝信(森吉成)らの第四軍とともに同月一七日に慶尚道金海に上陸した。
釜山に上陸した小西・宗ら第一軍は破竹の勢いで進撃し、五月二日には加藤清正・鍋島直茂らの第二軍とともに首都漢城(ソウル)を占領した。さらに小西・加藤らの第一軍・第二軍に黒田長政らの第三軍を加えた日本軍は、五月二七日から二八日にかけて臨津江を渡り、開城を落として、平壌を目指した。六月一六日には小西行長・宗義智・黒田長政が平壌を占領し、加藤清正は咸鏡道北部から満州オランカイにまで軍を進めた。
しかし、各地で両班地主層が義兵を組織して決起し、海上では李舜臣の率いる朝鮮水軍が日本水軍を撃破しその補給路を断った。また明の救援軍が鴨緑江を渡って参戦、翌文禄二年正月七日には明の李如松が小西行長が守る平壌を奪い返した。小西行長は黒田長政が在城していた黄海道の白川に向かったが、明軍の追撃を受けて長政とともに小早川隆景の拠る開城へ退却、さらに隆景も合流して漢城へ退いた。
明軍は退却する日本軍を追って一気に南下、正月一〇日には開城に達し、さらに漢城に迫った。これを迎え撃つ日本軍は、正月二六日に小早川隆景・立花宗茂らが漢城北方の碧蹄館の戦いで明の大軍を破り、漢城を確保した。
しかし、このころになると日本軍の兵糧不足が深刻となり、戦局は膠着状態に陥った。このため、文禄二年(一五九三)四月には明軍との間に停戦協定を結んで漢城から撤退し、講和のための交渉が始められることになった。