文禄二年(一五九三)五月、小西行長・宗義智は明の使者を伴って名護屋に渡り、講和のための交渉が開始された。秀吉は、勘合貿易の復活や朝鮮南四道の割譲など、七カ条の講和条件を明側に示したが、交渉にあたった小西行長らは、明側と相談して秀吉の要求をすりかえ、秀吉の降伏の上表文を偽作して講和の交渉を進めた。
秀吉は講和交渉を進める一方、講和条件で示した朝鮮南四道の割譲を既成事実とするため軍事行動を継続した。鍋島直茂・黒田長政らの日本軍は六月二九日に晋州城を攻め落とし、さらに全羅道に侵入した。七月には朝鮮在陣の諸将に朝鮮南海岸一帯にわたって城郭(倭城)の建設を命じ、黒田長政は慶尚道機張城の築城の普請と薪・炭の備蓄を命じられている。
これより先の文禄二年二月、黒田孝高は平壌敗北後における兵力再編についての秀吉の命令を伝えるため、浅野長政とともに朝鮮に渡海した。『黒田家譜』によれば、石田三成・増田長盛・大谷吉継の訪問を受けた孝高は、浅野長政と囲碁に興じて故意に対面を遅らせ、憤った三奉行は対面せずに帰った。三奉行は孝高が対面しなかったことを恨んで秀吉に訴えたため、秀吉は激怒し孝高を疎んじるようになったという。
同年八月九日、秀吉に叱責された孝高は死を覚悟し、長政に対して後継者や家臣の用法などについて諭している。同年八月一〇日付の長政宛秀吉朱印状は現在一カ条分が削除されているが、この部分には孝高が秀吉から成敗されるべきところを助けられたことが記されていた。それによれば、成敗の理由は一旦出された秀吉の命令に対し、孝高が重ねて秀吉の意を伺うために帰国したこととしている(『黒田家文書』第一巻)。
フロイスの『日本史』によれば、孝高は、朝鮮にいる武将たちの、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの意向を秀吉に伝えたが、この回答と意見は秀吉の不興を買い、秀吉は彼らを卑怯者と呼び、また孝高に対して激昂し、彼を引見しようとせず、その封禄と屋敷を没収したという。死を覚悟した孝高はこのとき剃髪して、如水清円と号するようになった。
同年九月二日、秀吉は孝高の隠居分一万石の物成五〇〇〇石を毎年大坂へ差し出すことを認め、今年分を名護屋の寺沢志摩守に渡すように命じているが(『黒田家文書』第一巻)、これは孝高の隠居分一万石が秀吉の支配下にあったことを示しており、孝高の隠居領が秀吉によって没収されたことを示すものと考えられる。