朝鮮出兵後の中央政局

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 慶長三年(一五九八)八月の秀吉の死は、朝鮮出兵中からみられた武功派と吏僚派の対立を激化させた。福島政則・黒田長政・加藤清正といった武功派の諸大名は、石田三成らと激しく対立し、親徳川家康の立場をとっていった。
 慶長四年正月になると、大老・奉行らは秀吉の遺命を奉じて秀頼を大坂城に移し、前田利家は後見としてこれに従った。徳川家康は伏見の屋敷に留まって公儀の政務を統括し、五奉行らは伏見と大坂を往来してその執行にあたったが、大坂の奉行衆や前田利家らの大老と伏見の家康との確執は次第に抜きがたいものとなっていった。
 閏三月三日、秀頼後見を託されていた前田利家が大坂で死去した。同月九日には福島政則・黒田長政・加藤清正らが石田三成を襲撃しようと大坂で決起し、伏見に上った。三成は伏見城内の自己の屋敷に立て籠もり、家康の仲裁によって三成は居城の近江佐和山に退いた。
 長政は、秀吉の死後、徳川家康に接近するようになったが、慶長五年六月には天正一二年(一五八四)に結婚した蜂須賀正勝の娘と離別し、家康の姪にあたる保科正直の娘栄姫(家康の養女)を夫人に迎えて、さらに家康との関係を強めていった。