徳川家康の会津出兵

270 ~ 271 / 898ページ
 奥州会津の大老の上杉景勝は、領内諸城の修築増強をすすめて兵糧を蓄え、武器鉄砲を調達するなど、軍事力を強化し、家康の釈明上洛の求めにも応じなかった。
 慶長五年(一六〇〇)五月三日、家康は諸大名に会津出征の命令を発し、六月一六日には自ら五万五八〇〇余の兵を率いて大坂城を立ち、七月二日に江戸城に到着した。七月二一日、家康は上杉氏討伐のため会津に向けて江戸を出発した。
 この間、石田三成は七月朔日に佐和山を出て大坂に赴き、毛利輝元を大将に迎えて、家康を弾劾する一三カ条の「内府ちかひの条々」を全国の大名に向けて発し、家康打倒の兵を挙げた。八月一日、三成は伏見城を陥落させ、九日には美濃方面へ出陣し、一一日には大垣城に入って、上杉景勝とともに東西から家康を挟撃するかまえをみせた。
 七月二四日、下野国小山に到着した家康は、三成の挙兵と伏見城落城の知らせを受け、翌二五日には全軍の諸将を招集して、三成挙兵への対応を協議した。長政は積極的に家康への忠誠を表明し、福島政則ら豊臣系の大名を家康の味方につけるのに成功した。
 協議は、豊臣系の諸大名も含めて三成を討つことで一致し、以後の戦略を協議して、会津方面への備えとして家康の次男結城秀康を主将とする軍勢を配置すること、上方への侵攻軍についてはこれを二手に分け、福島正則・黒田長政ら豊臣系の諸大名と家康は東海道を、家康の子供の秀忠が率いる徳川氏の本隊は中山道を進み、両者は美濃・近江方面で合流して大坂方と決戦に及ぶことを決定した。
 翌二六日、家康をはじめ諸大名は小山を出発して江戸に戻った。八月一日、豊臣系の諸大名と家康軍の先鋒本多忠勝・井伊直政は相次いで江戸を出発し、同月一四日までに全軍が福島正則の居城の清洲城に集結した。
 しかし、豊臣系の諸大名とともに東海道を進軍することになっていた家康は、江戸に留まったまま動こうとしなかった。これは、上杉景勝の動きに備えてのものであったが、福島政則ら豊臣系大名の動向を見極めるためでもあったといわれている。