八月二一日、福島政則らが岐阜城を攻め落とすと、宇都宮城で上杉氏に対する防禦陣地を構築していた秀忠が、八月二四日に中山道を西上した。家康も九月一日に江戸を出陣し、同月一三日に岐阜に至り、翌一四日には大垣城に対する赤坂の陣に入った。
家康はここで軍議を開き、三成らが籠もる大垣城を攻撃せず、一気に三成の本拠佐和山城を攻め、さらに大坂に進むことを決定した。これを知った西軍は、東軍の機先を制するため、一四日大垣城を出て関ヶ原に向かった。これを聞いた家康もただちに出動し、翌一五日夜明け前にはそれぞれ関ヶ原に陣を構えた。
一五日午前八時、井伊直政の抜け駆けをきっかけに戦闘が開始された。しかし、両軍ともに力が拮抗して一進一退を繰り返し、正午近くになっても勝敗はつかなかった。こうしたなかで、黒田長政の仲介で東軍に内応の約束をしていた小早川秀秋が西軍に攻撃をかけ、ようやく東軍の勝利が決定した。
長政は小山の評定に続いて、小早川秀秋の東軍への内応の約束を取り付けて東軍の勝利を決定づけるなど、家康の覇権確立に大きな役割を果たした。