九州での如水の活躍

271 ~ 273 / 898ページ
 九州では九月九日、平壌の戦いで小西行長を救援せずに退却して秀吉の激怒をかって除封された大友義統が豊後国速見郡別府浦に上陸し、旧領の奪還を企てた。
 九月一三日、黒田如水は豊後石垣原(大分県別府市)で大友義統の軍を破り、安岐・富来(国東町)など豊後国内の諸城を攻略した。如水は一〇月四日に中津に帰陣するが、城には入らず、直ちに小倉城の攻撃に向かった。
 如水は小倉の毛利勝信を降すと、筑前から筑後に入り、小早川秀包の家臣が守る久留米城や立花宗茂が立て籠もる筑後柳川城を開城させた。その後、加藤清正らとともに島津氏を討つため肥後佐敷・水俣まで軍を進めたが、家康の要請によって薩摩への進撃を中止した。
 この間、如水は九月二八日に黒田二四騎のひとり原弥左衛門の子の原吉蔵に対し、次のように安岐での軍功を称して二〇〇石を宛行うことを達している(福岡市博物館所蔵宝珠山・原家文書「黒田如水宛行状」)。
 
今度安岐表において高名仕り、褒美として西目において弐百石宛行い候。まったく領知致し、弥忠節肝要のものなり。
 慶長五年
  九月廿八日   如水(花押)
   原吉蔵とのへ

 一〇月一四日には原弥左衛門にも安岐での軍功を称して、毛利領の田川郡あがの村(上野村)・内田村・秋永村の合計二五〇〇石余を代官所として預け、知行は改めて申し付けると達している(福岡市博物館所蔵宝珠山・原家文書「黒田如水預ケ状」)。
 また、一〇月一七日には毛利勝信の嫡男毛利勝永の家臣であった白木貞右衛門に対しても、次のように毛利領の規矩郡朽網村内で二〇〇石を与えている(白木信博氏所蔵文書)。
 
写真10 慶長5年10月17日「黒田如水知行宛行状」白木貞右衛門宛
写真10 慶長5年10月17日「黒田如水知行宛行状」白木貞右衛門宛
(白木信博氏所蔵)

  豊前国規矩郡朽網村の内弐百石宛
  行い候。まったく知行せしむべき
  ものなり。
   慶長五
    十月十七日   如水(花押)
      白木貞右衛門殿

 
 原弥左衛門に預けられた田川郡や白木貞右衛門に与えられた規矩郡は毛利領であったから、本来は如水がそこに代官所を預けたり知行地を与えることはできなかったが、九月二八日付の井伊直政の如水宛の書状(『黒田家文書』第一巻)には、長政の戦功を賞し、石垣原での如水の大友吉統の「生捕」を称え、毛利勝信を攻めるように指示し、「殊に御領分の内に候間、即ち彼の地仰せ付けらるべきの由申され候」と、毛利領を黒田氏に与えるとの徳川家康の意向が記されており、これらの代官所の設置や知行の宛行は、この家康の意向を背景に行われたものと推測される。しかし、実際には一〇月下旬から一一月二日までには長政の筑前移封が決定され、毛利領内での代官所の設置や知行の宛行は実現しなかった(永尾正剛「慶長五年黒田如水発給の知行宛行状について」『北九州歴史博物館研究紀要』九)。
 原吉蔵は早世したが、父の原弥左衛門は筑前移封後の慶長七年(一六〇二)一二月に鞍手郡新入村のうちに二〇〇〇石を与えられ、白木貞右衛門も慶長六年三月に志摩郡の荻浦村と金丸村に二〇〇石を拝領している。
 関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は、西軍に属した大名を取り潰すとともに全国諸大名の国替えを実施した。黒田長政は関ヶ原の戦の功績によって怡土(いと)郡西部を除く筑前国を与えられ、そのあとには丹後国宮津の城主細川忠興が豊前一国と豊後二郡の内を与えられて中津に入った。