細川氏の概略

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 小倉藩の細川氏は、室町期に関東管領を勤めた細川氏の庶家であり、細川藤孝(幽斎)のとき将軍足利義昭に仕えたが、織田信長が義昭を見捨てると信長につき、信長が滅びると豊臣秀吉・徳川家康に従い、慶長五年(一六〇〇)に豊前・豊後国(表高三〇万石)、寛永九年(一六三二)に肥後国(表高五四万石)の大名となった。
 慶長五年の関ヶ原戦において、細川忠興は徳川家康の東軍に組し、会津征伐に従い、夫人ガラシャは石田三成方による大坂城への入城を拒否して命を絶ち、父幽斎は丹後田辺城で三成軍を迎え撃った。この活躍に対して、家康は戦いの最中に但馬国を加増し、戦後の慶長五年一一月に豊前一国と豊後二郡(速見郡は慶長六年に加増)を与えた。
 関ヶ原戦後、細川忠興は、家康側近のひとり榊原康政や、二代将軍徳川秀忠の側近である酒井忠世・土井利勝らに接近し、徳川政権への接触をはかる。例えば、忠興は、土井に江戸への参勤時期や将軍への献上品などについて指示を仰ぎ、一方の土井も何かと便宜をはかり、元和六年(一六二〇)の大坂城石垣普請に際しては、普請奉行へねんごろに周旋している。忠興の情報収集能力と政治の趨勢に対する素早い適応能力は、戦国乱世を生きぬき、織田・豊臣・徳川に仕え、ついには九州の中枢に位置する肥後熊本藩へ飛躍的に成長する根源であった。現在、細川忠興-忠利の父子間で交わした手紙は「細川家史料」(大日本近世史料)として刊行されている。
 また、細川氏の内部では、慶長一三年(一六〇八)までに忠興の弟興元や次男興秋の出奔、嫡男忠隆の廃嫡、さらに譜代重臣の飯河豊前・長岡肥後父子の誅罰、長岡監物の出奔など一連の細川騒動があり、これらを通して忠興は藩主としての権限を固めていった。そして忠興は、幼少から証人として江戸に住み、二代将軍秀忠の覚え目出たい三男忠利を世継ぎとした。慶長九年、参勤のため江戸へ出発しようとした忠興は、病気となり、万一の場合を考慮して、三男忠利を世継ぎとすることを家康に求めた(『綿考輯録』汲古書院)。