松井・長岡の両名は中津城の黒田如水に会ったうえで、「一、年貢・諸物成等相抱えるべき事」という制札を建てた。これにあるように、この年の年貢米は村々に残し、細川方が収納することになっていたが、黒田家およびその家臣たちは年貢を取って筑前へ移っていった。
年貢の先納問題について、黒田側の『黒田家譜』などに記述はないが、細川方には数多くの記録が残されている。引き継ぎを担当した松井家の年譜「松井家先祖由来付」によると、
慶長五年一二月二六日に中津城へ入った忠興は、翌年三~六月にかけて上方へ登り、徳川家康や本多忠勝・榊原康政などへ黒田方の年貢先納を訴えた。家康から「勝手次第」の返答を得た忠興は、黒田の上洛をまって催促するが、すぐには返済できないという「不埒」な返答だった。これに機嫌を損じた忠興は、関門海峡を通過する筑前船の穀物を差し押えるべく、門司に番船を配置している。ここに至って、両者に入魂の片桐市正らが介入し、本多・榊原の扱いでもって、黒田長政から「一札」を出させ、同年の冬までに返済が終わった。これに関して、細川家の年譜『綿考輯録』にも、「黒田父子は豊前にて先納を取り、そのまま筑前へ移られ候」とある。前領地での年貢を徴収せずに九州へやってきた細川忠興にとって、黒田方の年貢先納は我慢できる問題でなかった。
黒田長政から細川忠興へ出した「一札」の写が「松井家先祖由来付」に残っているので、あげておこう。
豊前我等知行方先納の事 | |
一、 | 五万石の内、二万石は六月・七月に相渡すべく候、残って三万石の内、一万石は大豆也、九月・十月・霜月に相渡すべく候、然れば先納の内、豊前においてこの前相渡し候分は請け取り次第に六月・七月相渡し、二万石の内に算用申すべく候、そのためかくのごとくに候、以上 |
六月朔日 黒田甲斐守 | |
長政 | |
羽柴越中守殿 | |
まいる |
黒田方が先納した五万石のうち、二万石は六、七月に返し、残る三万石は九~一一月に返すという「一札」である。この後、黒田側から先納米の返済が行われる。細川方では、返済を受ければ請取状を出すことになる。熊本大学図書館にある「松井家文書」には、請取状がいくつも残っている。
この後の慶長七年五月の忠興書状に、「先納の儀相済み候」とあるから、この時までにすべて返されていったと思われる。こうして、年貢米の先納問題は解決したが、返せば済むという問題ではなく、両者の政治・経済・社会的関係に大きな影響を及ぼすことになった。
年貢の先納問題から一八年たった元和四年(一六一八)、細川忠興は息子の忠利へ宛てた書状のなかで、黒田方と関係が悪いのは「入国以来の事」だと述べている。いまだに凝りを残しており、そうした関係の悪さは、豊前・筑前の人々の通行・通商にも大きく影響した。慶長一七年(一六一二)、山口の萩藩は密かに九州諸大名領の動静を探らせた。その報告書の一つに「豊前小倉世間取沙汰聞書」(「毛利家文庫」山口県文書館蔵)がある。
一 | 、筑前のもの町中にあき人なるとも、参り申すものからめ上ぐる事 |
付けたり、町中のもの筑前へ出入り仕りまじき事 |
小倉城下へやってきた筑前の商人(「あき人」)は捕らえられ、また小倉城下の町人が筑前へ出入りするのも禁止であった。庶民レベルにまで及ぶ両者の没交渉はこの後も続き、細川側では、「筑前通い仕り候ものは、一類を曲事」(寛永七年「御郡への状控」)と定められており、本人だけでなくその一族までも処分された。