領地の引き継ぎ

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 関ヶ原戦の戦後処理によって、丹後国から豊前・豊後国へ加増された細川忠興にとって、前領主との領地引き継ぎが当面の課題となった。豊前のうち、規矩郡・田川郡を領していた毛利勝信(小倉城・表高六万石)は除封、残る六郡を領していた黒田如水(中津城・表高一二五〇〇〇石)は筑前への加増転封となったから、領地の引き継ぎは細川-黒田間で行われた。細川方では、忠興の弟長岡玄蕃頭興元と重臣松井佐渡守康之が担当者として派遣された。慶長五年(一六〇〇)一一月六日、細川忠興から松井康之へ宛てた書状において、忠興は、「所務かた」、「先納かた」の年貢徴収をとても気にかけており、三日後の書状においても、黒田如水との相談を指示している(「松井家先祖由来付」「永青文庫」熊本大学附属図書館寄託、以下、細川時代の史料引用はとくに注記しないかぎり、「永青文庫」による)。
 松井・長岡の両名は中津城の黒田如水に会ったうえで、「一、年貢・諸物成等相抱えるべき事」という制札を建てた。これにあるように、この年の年貢米は村々に残し、細川方が収納することになっていたが、黒田家およびその家臣たちは年貢を取って筑前へ移っていった。
 年貢の先納問題について、黒田側の『黒田家譜』などに記述はないが、細川方には数多くの記録が残されている。引き継ぎを担当した松井家の年譜「松井家先祖由来付」によると、
 慶長五年一二月二六日に中津城へ入った忠興は、翌年三~六月にかけて上方へ登り、徳川家康や本多忠勝・榊原康政などへ黒田方の年貢先納を訴えた。家康から「勝手次第」の返答を得た忠興は、黒田の上洛をまって催促するが、すぐには返済できないという「不埒」な返答だった。これに機嫌を損じた忠興は、関門海峡を通過する筑前船の穀物を差し押えるべく、門司に番船を配置している。ここに至って、両者に入魂の片桐市正らが介入し、本多・榊原の扱いでもって、黒田長政から「一札」を出させ、同年の冬までに返済が終わった。これに関して、細川家の年譜『綿考輯録』にも、「黒田父子は豊前にて先納を取り、そのまま筑前へ移られ候」とある。前領地での年貢を徴収せずに九州へやってきた細川忠興にとって、黒田方の年貢先納は我慢できる問題でなかった。
 黒田長政から細川忠興へ出した「一札」の写が「松井家先祖由来付」に残っているので、あげておこう。
 
豊前我等知行方先納の事
一、五万石の内、二万石は六月・七月に相渡すべく候、残って三万石の内、一万石は大豆也、九月・十月・霜月に相渡すべく候、然れば先納の内、豊前においてこの前相渡し候分は請け取り次第に六月・七月相渡し、二万石の内に算用申すべく候、そのためかくのごとくに候、以上
六月朔日   黒田甲斐守
長政
羽柴越中守殿
まいる

 黒田方が先納した五万石のうち、二万石は六、七月に返し、残る三万石は九~一一月に返すという「一札」である。この後、黒田側から先納米の返済が行われる。細川方では、返済を受ければ請取状を出すことになる。熊本大学図書館にある「松井家文書」には、請取状がいくつも残っている。
 
写真1 黒田氏よりの先納米請取状
写真1 黒田氏よりの先納米請取状
(松井家文書 熊本大学附属図書館所蔵)

 この後の慶長七年五月の忠興書状に、「先納の儀相済み候」とあるから、この時までにすべて返されていったと思われる。こうして、年貢米の先納問題は解決したが、返せば済むという問題ではなく、両者の政治・経済・社会的関係に大きな影響を及ぼすことになった。
 年貢の先納問題から一八年たった元和四年(一六一八)、細川忠興は息子の忠利へ宛てた書状のなかで、黒田方と関係が悪いのは「入国以来の事」だと述べている。いまだに凝りを残しており、そうした関係の悪さは、豊前・筑前の人々の通行・通商にも大きく影響した。慶長一七年(一六一二)、山口の萩藩は密かに九州諸大名領の動静を探らせた。その報告書の一つに「豊前小倉世間取沙汰聞書」(「毛利家文庫」山口県文書館蔵)がある。
 
、筑前のもの町中にあき人なるとも、参り申すものからめ上ぐる事
付けたり、町中のもの筑前へ出入り仕りまじき事

 小倉城下へやってきた筑前の商人(「あき人」)は捕らえられ、また小倉城下の町人が筑前へ出入りするのも禁止であった。庶民レベルにまで及ぶ両者の没交渉はこの後も続き、細川側では、「筑前通い仕り候ものは、一類を曲事」(寛永七年「御郡への状控」)と定められており、本人だけでなくその一族までも処分された。