検地に際しては、まず検地の基準・方法などを示した条目が公布され、ついで検地奉行が任命され、その下に筆取、竿取などが置かれる。村ごとに田畑屋敷などを一筆ごとに測量し、その位置、等級(上・中・下・下々)、面積、石高および名請人などを調査決定して、村高を把握するとともに、その作業過程で野帳・地引帳・地引絵図などを作り、最終的に検地帳を作成して領主に提出・報告した。検地は、大名権力の基盤をなす土地・農民を直接掌握するための、最も基本的な政策であった。
細川による惣検地は、家譜の『綿考輯録』に「七月中御検地済」とあるが、現存する田川郡弓削田村などの検地帳日付は、慶長六年八~一一月となっている。検地の開始は七月付の検地条目があり、黒田如水から松井康之へ宛てた六月晦日付書状に「御検地やがて御出で有るべくと御苦労察し奉り候」とあるから(「松井家先祖由来付」)、七月以降である。長くても五カ月で終わった惣検地は、郡ごとに譜代重臣を配置して一斉に実施された。
田川郡弓削田村の検地帳には、「長岡監物内、村山九右衛門尉」、「長岡監物内、澤井治右衛門」などとあり、検地奉行は長岡監物是季(知行高二〇〇〇石)、実際の検地は彼の家臣が行っている。宇佐郡高家村の検地帳では、「竿打奉行は松井佐渡守殿内、浜市兵衛方検地仕られ候」と、松井佐渡守康之(知行高二万五〇〇〇石)と彼の家臣の名前がある。また惣検地ではそれまでの検地帳を参照しており、同五年の暮れ、領地引き継ぎを行った松井らが作成した「覚」には、黒田氏から「豊前の帳」、「小物成以下の帳」などを受け取ったことが記される。
年貢・夫役の賦課、および知行宛行の基本台帳となる検地帳を作成した後、細川領では、部分的な検地を行うことはあるが、惣検地を実施することはなかった。検地の打出高は三九万九五九九石六斗、表高三〇万石に対し一〇万石弱が打出されている(米津三郎「初期小倉藩の石高に関する若干の考察」、西南地域史研究会編『西南地域の史的展開』近世編)。
忠興は、同六年一〇月に家臣への知行宛行を実施する。知行惣高は「御検地の高四拾万石に少し不足也、その内三拾万石を給地に下され」とあり(『綿考輯録』)、三〇万石ほどであった。当時の臨戦体制に備えるこのような知行・家臣団編成は、小倉在城時代を通してみられ、元和七(一六二一)~八年「豊前御侍帳」・寛永七年(一六三〇)「於小倉御侍帳」の職員録でも三〇万石ほどが家臣へ与えられ、蔵入地は一〇万石前後だった。当時、知行地は全体の七割を占めていたが、熊本移封後の寛永一七年(一六四〇)では六割となり、知行地の相対的減少がみられる。
細川の家臣団は、豊前・豊後への加増転封に伴い大幅に増加した。慶長期の家臣数は不明だが、元和・寛永期における家臣(知行取)の階層構成は(表)のとおりである。八~九年の間に、一~三〇〇石層を中心に一六〇人ほど増えており、一〇〇〇石以上の大身層が減少している。大身家臣は青龍寺以来の譜代家臣であるのに対し、一~三〇〇石の家臣は旧大友氏家臣などから新規に召し抱えられた者も多く、藩主権力を補佐する奉行層を形成した。
細川氏の家臣団 | ||
知行高 | 元和7年~8年 | 寛永7年 |
人 | 人 | |
10,000石以上 | 3 | 4 |
5,000〃 | 4 | 4 |
4,000〃 | ||
3,000〃 | 3 | 5 |
2,000〃 | 14 | 6 |
1,000〃 | 27 | 19 |
900〃 | 1 | |
800〃 | 3 | 5 |
700〃 | 7 | 6 |
600〃 | 6 | 7 |
500〃 | 38 | 34 |
400〃 | 17 | 13 |
300〃 | 66 | 93 |
200〃 | 129 | 191 |
100〃 | 134 | 244 |
100石未満 | 39 | 18 |
計 | 490 | 650 |
(注)元和7~8年『豊前御侍帳』、寛7年 『於小倉御侍帳』(永青文庫)により 作成。細川氏家臣団の扶持・切米取は 3,600人ほど存在した。 |
知行地はどのように配られたのか、『綿考輯録』は「知行も一丸/\に下され、散り/\にはなされず候」と記す。これにあるように、当初は一括宛行の形態であったが、時代の下降とともに、知行替などを通じて散在・相給化するようになり、とくに寛永九年(一六三二)の熊本転封を契機にその傾向が強まる。