知行地の支配

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 家臣へ知行地を与える地方知行(じかたちぎょう)制は、一七世紀後半期に多く俸禄(ほうろく)制への転換、あるいは形骸化していくとしても、その前半期には個々の家臣による知行地支配が行われている。
 直轄地である蔵入地(くらいりち)の年貢は、藩の郡奉行が決定するが、知行地における年貢は家臣たちが決める。ただし、それには一定の制限があった。京都郡菩提村は慶長六年(一六〇一)に益田蔵人へ与えられ、その家臣である富永・島田・伊藤の三人が分有した。伊藤に所属した百姓弥二郎は、年貢未納のかたとして女房を質に取られたことを悔やみ、子を殺し、家に火を放って自殺した(「御奉行所覚帳抄出」)。この事件を契機に菩提村は取り上げられ、蔵入地になった。この場合、家臣が不当に高い年貢を課したわけでなく、また当時の細川領では年貢の方に人質を取ることも違法でなかったが、苛酷な年貢徴収による農民の疲弊をもって、細川氏は知行地を取り上げた。
 大名による家臣の知行地支配を制限するものとして、寛永三年(一六二六)の「定」がある(寛永三年「奉書」)。それは、家臣が過重な夫役(ぶやく)を課した時、蔵入地への移住を認めるものだった。そうした大名権力の意向に沿い、知行地支配を監視するのが郡奉行である。
 蔵入地の年貢徴収は、郡奉行-代官-庄屋の機構を通して行われているが、知行地における年貢徴収は実際にどうなっていたか。
 元和七年(一六二一)、住江武右衛門の知行地へ入作していた者が、年貢率五割三分の賦課に対し二割以上は出さないと主張した。この一件の裁決は本藩の惣奉行によってなされ、入作者は年貢上納するまで牢に入れられることとなった。仲津郡節丸村には住江だけでなく、沢村大学・井関傳蔵の知行地も設定されており、入牢者には沢村・井関の知行地百姓もいたので、二人は釈放を求めて訴えを起こした。井関の訴えの一部には(元和七~九年「立御耳工事目安の写帳・相済申工事目安の写帳」)、
 
、私知行は、庄屋・頭百姓に下代を申し付け、取り立て仕り申し候処に、籠者仰せ付けらるに付て、取り立てもまかり成らず、過分に未進御座候、武右衛門儀は御国に居られ候て年貢取り立て成らず候へは、各へ御理りを申され、百姓籠者仰せ付けられ取り立て遣わされ候、私儀は在江戸仕り、只今まかり下り候、その上右の仕合にて何共迷惑仕り候(後略)

とある。江戸にいた井関が帰国すると、知行地の者が牢に入れられていた。彼は庄屋・頭百姓を下代に任命して、年貢の取り立てを行っており、彼らが牢に入れられたために年貢の取り立てができないという。また沢村の訴えにも、自分の庄屋が「籠者」になり、年貢の取り立てができないとある。知行地ごとに庄屋がいたかどうか、元和八年「人畜改帳」をみると、「三間 庄屋」とあって、節丸村には三人の庄屋がおり、それぞれに知行地の年貢徴収を担当していた。
 元和八年(一六二二)、田川郡蔵入地の村々が高い年貢に反対して、稲刈り拒否をした一件で提出された代官の「覚書」によると(同前)、
 
 御給人衆去る物成御催促、少々所々に代官一人づつ付け置かれ、百姓油断仕らざるように催促仕られ、そのうえ御給人衆参られいろいろ吟味の由

とあり、知行地では、家臣の任命した代官が年貢徴収を行っており、また直接に家臣がやってきて取り立てることもある、とある。節丸村のように、庄屋らを代官としたのか明らかでないが、元和期の細川領では、家臣が独自の年貢徴収機構をもち、自らも取り立てを行っていた。
 徴収された知行地の年貢米は、領内で売却されたり、大坂などへ廻漕されていく。細川氏の蔵米が藩の船を主体に廻米されているごとく、大身の家臣も自前の廻船をもち、大坂へ廻米しており、なかには蔵米の販売ルートに乗って行われることもあった。
 一方、領内での地払いについては、城下町の小倉をはじめ、忠興の隠居地中津・在町・鉱山町などが米市場として存在した。忠利は、元和七年(一六二一)九月、在町の田川郡猪膝・規矩郡の内裏における米・大豆払い値段を小倉相場に合わせて売買するよう指示しており(元和七年「御印帳」)、これら領内市場へは、中小家臣の米も払い出されていた。
 知行地の支配は、一定の制限を受けながち、家臣が独自に行っていたから、年貢率は知行地ごと、あるいは知行地と蔵入地で異なっていた。慶長一七年(一六一二)の萩藩による細川領調査によると、知行地は、年貢率五〇%の上知行地・四五%の中知行地・三五%の下知行地という三段階に分かれていた、とある。年貢率は一律でなく、村ごとに、あるいは村内部でも知行地ごとに違っていた。