知行地の検地や人別改めは、大名権力によって行われたから、慶長六年(一六〇一)検地帳や元和八年(一六二二)「人畜改帳」にもとづき知行地が配分される。家臣たちは、与えられた知行地の住民をいかに把握し、その経営を行っていたか具体的事例を通して見ていこう。
元和八年、京都郡の蔵入地伊与原村と有吉平吉知行地延永村との間で帰参百姓の出入が起こった。この出入は、はじめ郡奉行によって裁かれたが、決着がつかなかった。伊与原村九郎右衛門の「申し上ぐる覚」から出入の内容をうかがってみよう(元和七~九年「立御耳工事目安の写帳・相済申工事目安の写帳」)。
私九郎右衛門は、舅の延永村「外記」とその子少三郎の養子を約束し、慶長一五年に伊与原村で町立てが行われた時、少三郎を連れて引っ越した。ところが、元和五年に延永村を知行する有吉平吉(一万五〇〇〇石)の家臣矢坂角兵衛は、少三郎を取り戻さなければ籠者にすると父母に命じた。私は父母のためを思い、惣庄屋・郡奉行へは届けず少三郎を返したが、すぐに少三郎は延永村から他国へ走ってしまった。この度、帰国奨励の高札が出たので、方々捜して回り、豊後国石川忠総領の日田で少三郎を見付け帰参するよう勧めた。しかし少三郎は、延永村へは帰らないと言うので、その旨郡奉行・代官・惣庄屋へ報告し許可を得て、伊与原村に連れもどした。
出入は、知行地から蔵入地への養子について起こっている。延永村側が養子の返還を求める背景には、知行主矢坂の存在があり、元和五年に少三郎を一旦取り返した時は矢坂の強制によるものだった。また、同七年一二月に帰国した少三郎を取り返せという指示も矢坂が出している。右において、養父九郎右衛門が返還を拒否する主張点は、養子縁組をしていること、少三郎が伊与原村居住を希望し、郡奉行らの許可を得ていることである。これに反論する延永村側の要点は、
①九郎右衛門は、慶長一五年に少三郎を連れて伊与原新町へ移ったと言っているが、偽りである。九郎右衛門は同一六年に筑前福岡藩から延永村へ戻り、その後伊与原新町へ移った。
②延永村「外記」は、少三郎を連れて筑前へ走り、慶長一一年に帰国した。彼は同一六年から矢坂角兵衛の知行地の百姓となり、元和元年、息子弥蔵(少三郎の兄)の嫁に同村太郎右衛門の娘をもらった。ところが、延永村は数人の家臣が知行する相給地であり、太郎右衛門は別の知行地の百姓だったので、知行主の沢太郎兵衛は、「他の百姓へむすめを遣わし候事、曲事候間、早々取り返し候へと」申し付けた。この件は、延永村惣百姓の詫言により、弥蔵と娘の婚姻はそのままにするが、代わりに少三郎を太郎右衛門の養子とする、ということで決着した。
③九郎右衛門は少三郎を養子にしたと言っているが、少三郎は延永村太郎右衛門の養子であり、九郎右衛門の主張は偽りである。去年の高札でも、「まかり帰る百姓、先づ在所へ直し申す」となっており、少三郎は延永村へ返すべきである。
両村の「申し上ぐる覚」を受け取った郡奉行は、少三郎を伊与原村に置くべきと申し付けたが、延永村を知行する矢坂の主人である有吉平吉の了承が得られないとして惣奉行へ上申した。惣奉行はこの件を年寄衆へ上げ、両者の連印で裁決が出された。それは少三郎を伊与原村に置くというものだった。
これから、家臣たちが自らの知行地の農民減少に極めて敏感だったことが分かる。ここでは、同じ村であっても、知行主は別の知行地の者と結婚することさえ許さなかった。つまり、一つの村が数人の家臣によって分有されている場合、農民たちはそれぞれの知行主に分属させられていたのである。