逃亡者の返還交渉

285 ~ 287 / 898ページ
 寛永元年(一六二四)八月、細川氏陪臣の木村十左衛門は、走り者の返還を求める訴えを起こした。それには(寛永二年「御留守中相済申公事帳」)、
 
 私の親内山喜右衛門は、慶長五年に小者を買取り、同六年の国替により筑前へ移った。そして同八年に再び帰ってきて、細川氏重臣の米田監物に仕えた。しかし、米田は扶持を放たれたので、私共は生活に窮迫し、小者も走ってしまった。その小者を元和七年八月に江戸で見付けたので、居所を尋ねたところ、藪内近の馬乗衆河島善兵衛所にいることが判明した。そこで河島氏に返還を申し込んだが、「知行所の名帳の百姓にて御座候……御国まで預け候へと」という返事であった。河島が帰国した同九年一〇月、小者の返還を河島の組頭に申し込んだが、その返事は河島と同じく、知行所の百姓であるから関与できないということだった。そこで、郡奉行に訴えたが、郡奉行はその者が百姓でないので、関与できないと言ってきた。

 
とある。木村は、父内山喜右衛門が買得した小者の返還を求めており、小者甚吉を百姓とするかどうかによって、郡奉行らの管轄も異なっていた。そこで直接に公事聞(くじきき)へ訴えている。甚吉の素性をみると、彼の父藤兵衛は国東郡次郎丸村の百姓であったが、出入があり、仲津郡の津留村へ移り、内山喜右衛門の荒仕子(下人)として抱えられた。そして子の甚吉も譜代下人として内山に売り渡されており、慶長五年(一六〇〇)の証文が提出されている。
 同六年、藤兵衛・甚吉は内山に伴い黒田領へ行き再び戻ってきた。内山は米田監物に召し抱えられ、仲津郡で一五〇石の知行地を得ていたが、米田が牢人となってしまったため内山も牢人となり、甚吉は一年余り奉公を続けた。しかし、無給だったのでそこを離れ、本来の居村である次郎丸村へ帰った。この次郎丸村は藪内近の知行地であり、その家臣河島善兵衛に与えられていた。知行主の河島へ人足として出た甚吉が江戸にいた時、内山善右衛門の子木村十左衛門に見付けられ、今回の出入となる。
 藤兵衛・甚吉父子がもともと次郎丸村の百姓であったことについては、惣庄屋の証言もある。だが、この父子は一度ここを去ってから、再び帰参しており、百姓として認めるかどうかは、検地帳への登録が証拠となる。この点について寛永元年九月、次郎丸村を管轄する惣庄屋の「申し上ぐるの事」に次のようにある。
 
 川島善兵衛方百姓甚吉儀、御検地の砌は筑前に居り申し候由に御座候条、私手永次郎丸村御検地御帳には付き申さず候、薮内近殿知行御くばりの名寄帳に付き申し候

 
 細川氏が入国して行った慶長六年検地の時、甚吉父子は内山に従い黒田領の筑前にいたので、検地帳にその名はなかった。公事聞の裁決状によれば、「藪内近内の馬乗共に知行所遣わし候時の名帳には付き候へども、是を以って百姓の筋目と申すべき様御座なく候」とあり、河島へ知行地を与えた時の「名帳」に甚吉の名は付いていたが、それをもって「筋目の百姓」ということはできなかった。百姓であることの根拠は、慶長六年検地帳に求められている。この点からも、甚吉を百姓という河島の主張は退けられた。さらに、甚吉は内山へ草履取りの奉公に出ていたというのに対し、証文には「永譜代」と明記してあり、甚吉は以前の抱え主内山の子木村十左衛門に渡された。
 この例から、細川領内における走り者の返還は、走り者を出した側からの要求があって交渉が始まり、事前に返されることはなかったことが分かる。交渉はまず直接に行われ、それでも返されなかった時に郡奉行・惣奉行などへ訴えられる。返還の可否は、百姓の場合、検地帳の名付、とくに慶長六年の検地帳による。細川氏の惣検地は慶長検地だけであり、寛永三年にも実施されるが、これは規矩郡のみの検地であった。